遠江国(今の静岡県掛川市付近)の漢方医・鷲山養斎の二女として生まれた。本名は鷲山弥生。家では医学の話が日常にあり、女性が学ぶことへの理解も比較的あった。のちに医者を志す下地が、幼少期から育まれた。
上京して済生学舎(のちの日本医科大学につながる医学校)に入った。済生学舎では男子と同じ厳しい授業を受け、解剖学や臨床の基礎を学んだ。女性が医を学ぶことへの偏見と戦いながらの学生生活だった。
内務省の医術開業試験に合格し、日本で二十七人目の女医となった。東京で診療を始め、女性や子どもの患者にも寄り添う医を目指した。開業医としての経験が、のちの学校設立の動機にもなった。
再上京し、ドイツ語などを教える私塾に通うなかで院長の吉岡荒太と知りあい結婚した。夫婦で医療と教育に取り組む態勢が整い、女医養成への思いが具体化していく。周囲の記録にも、そのときの様子が残されている。
済生学舎が女子の入学を拒んだことを知り、日本初の女医養成機関として東京女医学校を開いた。東京女医学校は校舎も資金も乏しい出発だったが、弥生は自ら教え、生徒を励まし続けた。
東京女子医学専門学校に昇格し、教育内容を充実させた。卒業生は各地で医師として働き、女性が医を志す道を広げた。公的な認可に向けた努力も続けられた。周囲の記録にも、そのときの様子が残されている。
文部省の指定校となり、卒業生は無試験で医師資格を得られるようになった。長年の教育実績が認められた画期だった。東京女医学校以来の積み重ねが、制度として実を結んだ。
ホノルルの汎太平洋婦人会議に日本女医会の代表として出席した。海外の女性医療者との交流は、日本の女医の到達点を示す機会にもなった。帰国後も国際的な視野を教育に生かした。
空襲で校舎を失うなど苦境のあと、戦後は学校の再建に取り組んだ。物資も人材も足りない中で、女医教育を守るために奔走した。高齢になっても、創立者としての責任を果たし続けた。
東京で亡くなった。享年八十七。女医の道を自ら開き、学校を創って多くの女性医師を育てた生涯だった。東京女医学校に始まる流れは、今日の東京女子医科大学へとつながっている。
広瀬武夫志賀潔国木田独歩幸徳秋水樋口一葉島崎藤村田山花袋秦佐八郎
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。