何をした人?
明治時代の外交官で、外務大臣をつとめました。長州の村医者の家に生まれ、プロイセン(ドイツ)に留学してドイツ通の外交官となりました。外務大臣として条約改正に取り組みましたが大津事件で辞任し、のちにイギリス駐在公使として1894年の日英通商航海条約の調印にあたりました。
| 名前 | 青木周蔵 |
|---|---|
| 生没年 | 1844年(天保15年) – 1914年(大正3年) |
| 時代 | 江戸末〜大正時代 |
| 出身地 | 長門国 |
| 主な業績 |
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長門国(山口県)厚狭郡の村で、長州藩の村医者・三浦玄仲の長男として生まれた。幼い名は三浦団七。医者の家に育ったことから、自分も医学を学ぶ道に進んだ。藩の学校である明倫館で学び、学問に優れた若者として周りに認められるようになった。
藩主の毛利家に仕える医者の家である青木家に、青木研蔵の養子として入った。研蔵の兄の青木周弼は、日本で早くに種痘を行った蘭学者として知られていた。養父と周弼から一字ずつとって周蔵と名を改めた。その後、藩の命で長崎へ行き、西洋の医学を学んだ。
藩の留学生としてプロイセン(ドイツ)へ渡った。最初に洋行したときにはまだまげを結っていて、人々に笑われたため、同行者が髪を切ってくれたという話が伝わる。ドイツでは医学から政治や経済の学問に勝手に専攻を変えて問題になったが、訪れた山県有朋にかけ合って認めさせた。
ドイツでの学びを生かして外務省に入った。翌年にはドイツ駐在の公使となり、ベルリンに赴いた。日本の留学生が軍事や医学に集中していることを心配し、林業や製紙、ビール造りなど、近代化に必要な多くの分野に学ぶ人を分けるべきだと説いた。
ドイツでプロイセンの貴族の娘エリザベートと知り合い、結婚を決意した。日本にいた妻との離婚がなかなか認められず苦労したが、品川弥二郎らの助けもあって外務省から結婚の許可を得た。ドイツでの暮らしは合わせて25年にも及び、日本きってのドイツ通として知られた。
憲法を学ぶためヨーロッパに来た伊藤博文を助け、ベルリン大学のグナイストやウィーン大学のシュタインという法学の学者を紹介した。伊藤はこれらの学者からドイツやオーストリアの憲法の考え方を学び、のちの大日本帝国憲法づくりに生かした。
日本に戻って外務次官となり、外務大臣の井上馨を支えて、外国との不平等な条約を改める交渉に加わった。井上の後に外務大臣となった大隈重信のもとでも次官を続け、条約改正の全権委員として交渉の中心で働いた。
大隈重信が襲われて大けがをし辞めたあと、山県有朋の内閣で外務大臣となった。外国人の裁判官を最高の裁判所に入れないなど、日本の立場を守る方針をまとめた「青木覚書」を作り、イギリスとの交渉を自ら指揮した。ロシアを警戒するイギリスも日本に好意的で、交渉は成功しかけた。
新しい条約の調印を目前にして、日本を訪れていたロシアの皇太子が滋賀県の大津で警備の巡査に切りつけられる大津事件が起きた。青木は責任を取って外務大臣を辞め、条約改正の交渉は中断した。後任の外務大臣には陸奥宗光が選ばれた。
イギリス駐在の公使として、外務大臣の陸奥宗光とともに交渉を進め、ロンドンで日英通商航海条約に調印した。この条約で、外国人が日本の法律で裁かれない領事裁判権がなくなることが決まった。長年の条約改正の努力が、ついに大きな成果を上げたのである。
山県有朋の二度目の内閣で、再び外務大臣となった。1900年に中国で義和団の乱が起きると、各国の動きをいち早くつかみ、日本も積極的に関わるよう主張した。のちには天皇の相談役である枢密顧問官を務め、ロシアに強い姿勢で臨むべきだと考えていた。
アメリカ駐在の大使となり、ワシントンに赴いた。当時アメリカの西海岸では日本人移民への反発が強まっており、日本人の子どもが学校で分けられる問題などが起きていた。青木はこの移民の問題を解決しようと努めたが、交渉は難しく、翌年には任を解かれて帰国した。
肺炎のため東京の自宅で亡くなった。遺体は栃木県那須の別荘の近くに葬られた。那須に建てた洋館は旧青木家那須別邸として今も残っている。ドイツの文化や制度を日本に伝え、長く条約改正に取り組んだ外交官として、明治の日本が国際社会で地位を高める道を切り開いた。
A. 明治時代の外交官で、外務大臣をつとめました。長州の村医者の家に生まれ、プロイセン(ドイツ)に留学してドイツ通の外交官となりました。外務大臣として条約改正に取り組みましたが大津事件で辞任し、のちにイギリス駐在公使として1894年の日英通商航海条約の調印にあたりました。
A. 江戸末〜大正時代の人物です。1844年(天保15年)に生まれ、1914年(大正3年)に亡くなりました。
A. 青木周蔵は長門国の生まれです。
A. この条約で、外国人が日本で罪を犯しても日本の法律で裁けなかった領事裁判権(治外法権)がなくなることが決まりました。不平等な条約を改める大きな一歩で、外務大臣の陸奥宗光とともに青木が交渉を進めました。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
この人の一生をたどる(自動再生)井上勝西郷従道陸奥宗光井上毅新島八重中江兆民森有礼東郷平八郎
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