熊本藩の家老である長岡家に仕える飯田家の三男として、熊本の城下で生まれた。父は禄の少ない下級武士だった。幼いころから神童ともてはやされ、家の手伝いをしながらも読書を欠かさなかったという。その勉強熱心な姿が主君の長岡是容の目に留まった。
主君の長岡是容に認められ、長岡家の家塾である必由堂に入って五年間学んだ。続いて儒学者の木下犀潭の塾に入門すると頭角を現し、竹添進一郎らと並ぶ秀才として注目された。身分の低い家の少年が、学問の力で道を切り開いていった。
木下犀潭の推薦により、家臣の家臣という立場ながら、熊本藩の藩校である時習館の寮生に選ばれた。儒学、とくに朱子学を深く学んだが、ただ覚えるだけでなく、現実の政治に役立つ実践的な学問を大切にした。読書と注釈に明け暮れる日々だった。
謹慎中だった思想家の横井小楠を訪ねて議論を交わし、その内容を記録に残した。開国して貿易を盛んにすべきだと説く小楠に対し、若い井上は、言葉も制度も違う外国とうまく付き合えるか疑わしいと反論した。のちに考えを大きく改めることになる。
井上家の養子となったのち、幕府が横浜に開いたフランス語の学校に移って学び始めた。しかし大政奉還と戊辰戦争の混乱で学びは中断し、故郷に戻った。長崎でも学ぼうとしたが藩の命令で断念し、熊本藩の兵とともに東北へ従軍して日記を残した。
明治政府の司法省に入り、フランス語ができることから、司法制度を調べる使節団の一員としてヨーロッパへ渡った。ドイツでは、その国の歴史や習慣を重んじる法律学に触れ、外国の法をそのまま写すのではなく、日本の伝統を生かすべきだと考えるようになった。
帰国後、大久保利通に才能を見込まれて用いられた。佐賀の乱を鎮めに向かう大久保に同行し、さらに台湾への出兵をめぐって清へ交渉に赴いた大久保に従い、交渉の文書づくりを任された。若い官僚として、国の大事に直接関わる仕事を始めた。
大久保の死後は岩倉具視の知恵袋となった。イギリスにならう憲法案が出されると、天皇の権限が強いプロイセン型の憲法を急いで作るべきだと説き、政府内で多数派づくりに動いた。この年の明治十四年の政変で、政府の憲法づくりの方針が定まった。
伊藤博文の頭脳役として活躍し、国会を開く時期を約束する天皇の言葉を起草したほか、この年に出された軍人勅諭の起草にも関わった。朝鮮で起きた事件の後始末にも同行するなど、法と文章の専門家として、政府のあらゆる重要な場面で頼りにされた。
伊藤博文の別荘があった夏島などで、伊東巳代治、金子堅太郎とともに伊藤を囲み、四人で議論を重ねて憲法の草案を練り上げた。古事記を読み込み、日本の伝統的な統治の考え方を憲法に生かそうと工夫した。外国人顧問の意見も参考にしたという。
天皇の相談機関である枢密院で書記官長として審議を支え、この年に大日本帝国憲法が公布された。法律の専門家として、皇室典範などの起草にも関わった。保守的な考えを持ちながらも、法に基づいて国民の権利を守るという立憲主義の原則を重んじたとされる。
首相の山県有朋に頼まれ、道徳教育の基本を示す教育勅語の起草に当たった。宗教や哲学の色を避け、中立的な内容にすべきだと考え、同じ熊本出身の儒学者の元田永孚と相談しながら言葉を練った。この年に教育勅語が出され、長く学校教育の柱とされた。
第二次伊藤内閣で文部大臣となり、結核に苦しみながらも学校制度の改革に力を尽くした。実業教育を広げるための国の補助を進め、高等学校の制度を改めるなど、大学に進む以外の道も開こうとした。自ら学校を訪ねて実情を調べることもあった。
大臣を辞めたのち、逗子の別荘で療養したが病は重くなり、亡くなる直前に子爵の位を授けられたのち世を去った。敵対する立場の中江兆民も、まじめで図々しいところのない人だと評した。明治国家の骨組みを描いた人物として、今も研究が続いている。
新島襄井上勝西郷従道陸奥宗光新島八重中江兆民森有礼東郷平八郎
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。