駿河の今川氏の重臣庵原氏の一族、庵原政盛の子として生まれた。母は同じく今川家臣の興津氏の娘と伝わる。武家の子でありながら幼いころに仏門に入り、僧として学問の道を歩むことになった。
京の建仁寺で常庵龍崇に学んでいたが、今川氏親に招かれて駿河に戻り、氏親の五男芳菊丸(のちの義元)の教育係となったと伝わる。二人は善得院に入り、さらに京へ上って建仁寺や妙心寺で禅を学んだ。
当主の今川氏輝とその弟が同じ日に急死し、家督をめぐって義元と異母兄の玄広恵探が争った(花倉の乱)。雪斎は義元を還俗させ、氏親の正室寿桂尼らとともに義元方をまとめて勝利に導き、義元を当主の座につけた。
義元は甲斐の武田信虎の娘を正室に迎え、武田氏と同盟を結んだ。この交渉には雪斎が関わったとみられる。しかしこれに怒った相模の北条氏綱が駿河東部の河東地方に攻め込み、今川と北条の争い(河東の乱)が始まった。
このころまでに雪斎は妙心寺派の禅僧として、太原崇孚の名を用いるようになった。僧としての修行と学問を続けるかたわら、今川家の政治や外交、さらには軍勢の指揮にまで深く関わり、義元のいちばんの相談役となっていた。
雪斎は武田晴信の仲立ちを得て北条氏康と和睦をまとめ、北条氏に奪われていた河東の地を今川氏に取り戻した。同じころ、駿府に臨済寺を開いて義元の兄氏輝の菩提をとむらい、のちにこの寺の住持もつとめた。
今川氏は西の三河に勢力をのばし、雪斎は軍を率いて三河の田原城を攻め落とした。三河の松平氏は今川氏を頼り、このとき人質として駿府に送られる途中の竹千代(のちの徳川家康)が、尾張の織田方に奪われたと伝わる。
三河に攻め込んできた織田信秀の軍と、雪斎の率いる今川軍が小豆坂で戦い、今川方が勝った。この勝利によって三河での今川氏の立場は強まり、織田氏の勢いは三河からしだいに後退していった。
松平広忠が亡くなると、雪斎は三河の安祥城を攻め落とし、城を守っていた織田信秀の子信広を生け捕りにした。そして信広と、織田方にいた竹千代との人質交換をまとめ、竹千代は駿府で今川氏のもとに置かれることになった。
雪斎は京の妙心寺の住持に迎えられた。武将として戦場に立ちながら、禅僧としても高い地位に上ったのである。竹千代が駿府で雪斎から学問を教わったという話が伝わるが、これには諸説あり、確かなことはわかっていない。
義元は父氏親が定めた分国法「今川仮名目録」に新たな条文を加えた「仮名目録追加」を定めた。雪斎もその制定に関わったとみられている。今川氏が室町幕府の権威にたよらず、自らの力で国を治めることを示す内容だった。
今川・武田・北条の三氏の間で、互いに娘を嫁がせ合う甲相駿三国同盟が成立し、雪斎はその実現に力を尽くしたとされる。三氏が善得寺に集まって会盟したという話は、後の時代に作られたものと考えられている。
この年、駿河の長慶寺で病のため亡くなった。享年は数えで六十だった。雪斎を失った今川氏はその後も勢力を保ったが、5年後に義元は桶狭間の戦いで織田信長に敗れて世を去り、今川氏は急速に力を失っていった。
北条早雲(伊勢宗瑞)尼子経久北条氏綱斎藤道三毛利元就フランシスコ・ザビエル大内義隆松永久秀
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。