安芸(広島県)の小さな国人・毛利弘元の次男として生まれた。
幼くして母を、9歳で父を亡くした。住んでいた城を家臣に奪われ、「乞食若殿」と呼ばれるほど苦しい日々を送ったと伝わる。父の側室だった杉大方が、彼を大切に育てた。
20歳で初めての戦に出て、安芸の武田元繁の大軍を少ない兵で破った(有田中井手の戦い)。「西の桶狭間」とも呼ばれる。
兄と甥が相次いで亡くなり、26歳で毛利家の当主となった。当時の毛利家は、出雲の尼子氏と周防の大内氏という二つの大国にはさまれていた。
尼子氏の大軍に本拠の吉田郡山城を囲まれたが、城下の人々とともに城にこもって守りぬき、大内氏の援軍とともに尼子軍を退けた。
このころまでに、次男の元春を吉川家に、三男の隆景を小早川家にそれぞれ養子に入れた。二つの家が毛利家を支える「毛利両川」の体制を作った。
主君の大内義隆を倒した陶晴賢の大軍を、嵐の夜に厳島へおびき寄せ、奇襲して破った。これで中国地方での力が大きく広がった。
大内氏をほろぼした年、3人の息子に、兄弟が力を合わせて毛利家を守るよう説いた長い手紙「三子教訓状」を書いた。1本の矢は折れても3本なら折れないという「三本の矢」の話は、この手紙をもとにした後の時代の逸話である。
跡継ぎの長男・隆元が急に亡くなり、元就は深く悲しんだ。孫の輝元が跡を継ぎ、元就が後見した。
長い戦いのすえ、出雲の月山富田城を落として尼子氏を降伏させた。中国地方のほぼ全域を治める大大名となった。
吉田郡山城で74歳で亡くなった。小さな国人から一代で中国地方の覇者となった、知略にすぐれた武将だった。
尼子経久北条氏綱斎藤道三太原雪斎フランシスコ・ザビエル大内義隆松永久秀北条氏康
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