日本史人生シミュレーター

北条氏綱

後北条氏の2代目当主
時代:戦国時代 / 1487年〜1541年(54歳ほど)
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歩んだ道

1487年

誕生

伊勢宗瑞(北条早雲)の嫡男として生まれた。母は小笠原氏の娘とされる。父は今川氏の親戚として駿河で力をのばしており、氏綱はその後継ぎとして、戦国大名へと成長していく家の中で育った。

1495年

父が小田原城を得る

このころ父の宗瑞が相模の小田原城を手に入れたとされる。年代には諸説あるが、小田原はのちに北条氏五代の本拠となる。氏綱は少年期から、伊豆・相模へ勢力を広げる父の戦いを間近に見て育った。

1516年

三浦氏をほろぼす

父とともに相模の名族三浦道寸・義意父子を新井城に攻め、長い籠城戦の末にほろぼした。これで相模一国がほぼ北条氏のものとなった。氏綱は合戦の中心で働き、次の当主としての力を示した。

1518年

家督を継ぎ虎の印判を使う

父が隠居し、氏綱が家督を継いだ。このころから「虎の印判」を押した文書で領民に直接命令を伝えるしくみが始まり、勝手な取り立てを防ぐねらいがあったとされる。北条氏の丁寧な領国支配の始まりだった。

1519年

父宗瑞の死

父の宗瑞が亡くなった。氏綱は父のきずいた伊豆・相模の領国を引き継ぎ、検地や寺社の保護を進めて支配を固めた。外では関東の名門上杉氏が立ちはだかり、ここから武蔵へ進む長い戦いが始まる。

1523年

北条を名のる

このころ、それまでの伊勢氏から北条氏へと名字を改めた。鎌倉幕府の執権北条氏の名をつぐことで、関東を治める正しさを示そうとしたと考えられている。こうして「後北条氏」と呼ばれる家が生まれた。

1524年

江戸城を奪う

扇谷上杉朝興の守る武蔵の江戸城を攻め落とした。江戸城は太田道灌が築いた要の城で、これにより北条氏は武蔵へ大きく進出した。一方で上杉氏や甲斐の武田氏とは、この後も激しい争いが続いた。

1532年

鶴岡八幡宮の再建

戦火で焼けた鎌倉の鶴岡八幡宮の再建に取りかかり、関東各地の武士や職人を動かして1540年に完成させた。源氏ゆかりの社をよみがえらせたことは、北条氏が関東の守り手であることを広く示すねらいもあった。

1537年

河越城を得る

扇谷上杉朝定の本拠である武蔵の河越城を攻め取った。これで扇谷上杉氏の力は大きくそがれ、北条氏は武蔵の大半をおさえた。河越城はのちに子の氏康が上杉連合軍を破る「河越夜戦」の舞台ともなる。

1538年

第一次国府台合戦

下総の国府台で、小弓公方足利義明と安房の里見義堯の軍を破った。義明は戦死し、氏綱は古河公方足利晴氏の信頼を得た。のちに娘を晴氏に嫁がせ、関東管領に任じられたとも伝わり、関東での地位を高めた。

1541年

子氏康へ教えを残して死去

病で亡くなる前、子の氏康に五か条の書き置きを残したと伝わる。義を守ること、家臣や民を大切にすること、ぜいたくをいましめることなどが説かれ、北条氏の家風の手本となったとされる。

この時代に起きたこと

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