越前(福井県)の戦国大名・朝倉孝景の子として、本拠の一乗谷に生まれた。朝倉氏は応仁の乱のころから越前を治め、一乗谷の城下町は京都の文化が花開く町として栄えていた。
父が急に亡くなり、16歳(数え年)で家督を継いで朝倉氏の11代当主となった。はじめは延景と名のった。父の代から仕える一族の名将・朝倉宗滴が、若い当主を支えた。
将軍・足利義輝から「義」の一字をもらい、義景と改名した。朝倉氏は越前の守護として幕府と深くつながり、名門の大名として重んじられた。
加賀の一向一揆との戦いのさなかに、宗滴が病で亡くなった。長く朝倉氏を支えてきた柱を失ったことは、義景にとって大きな痛手となった。
このころ、一乗谷には戦乱の京都をのがれた公家や僧、文化人が多く集まった。義景は和歌や連歌、茶の湯、絵を好み、京都から来た人々と川のほとりで曲水の宴を開くなど、華やかな文化を楽しんだ。
兄の義輝を失った足利義昭が越前に身を寄せ、京都へ戻るための助けを求めた。義景は義昭を手厚くもてなしたが、なかなか兵を出して京都へ攻め上ろうとはしなかった。
跡継ぎの長男・阿君丸が幼くして急に亡くなり、義景は深く悲しんだ。同じ年、待ちきれなくなった義昭は越前を去って織田信長を頼り、信長とともに京都へ入った。
信長の呼びかけに従って京都へ行かなかったため、信長に攻められた。浅井長政が信長を裏切って朝倉方についたので信長は退いたが、同じ年の姉川の戦いでは、浅井・朝倉の軍は織田・徳川の軍に敗れた。
同じ年の秋、浅井軍とともに比叡山にこもって信長と向かい合った(志賀の陣)。冬になると、将軍義昭や朝廷のとりなしで信長と和睦した。
武田信玄が西へ兵を進め、信長包囲網が強まった。義景も近江(滋賀県)に出陣したが、冬になると兵を越前へ引き上げてしまい、信玄を失望させたと伝わる。
信長に攻められた浅井氏を助けに出たが敗れ、一乗谷へ逃げ帰った。さらに大野へ移ったところで一族の朝倉景鏡に背かれ、自ら命を絶った。一乗谷の町は焼かれ、朝倉氏はほろんだ。町の跡は今、一乗谷朝倉氏遺跡として残る。
大友宗麟吉川元春ルイス・フロイス小早川隆景島津義久大村純忠織田信長細川幽斎(藤孝)
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