日本史人生シミュレーター

朝倉義景

越前の戦国大名
時代:戦国時代 / 1533年〜1573年(40歳ほど)
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歩んだ道

1533年

誕生

越前(福井県)の戦国大名・朝倉孝景の子として、本拠の一乗谷に生まれた。朝倉氏は応仁の乱のころから越前を治め、一乗谷の城下町は京都の文化が花開く町として栄えていた。

1548年

家督を継ぐ

父が急に亡くなり、16歳(数え年)で家督を継いで朝倉氏の11代当主となった。はじめは延景と名のった。父の代から仕える一族の名将・朝倉宗滴が、若い当主を支えた。

1552年

義景と名のる

将軍・足利義輝から「義」の一字をもらい、義景と改名した。朝倉氏は越前の守護として幕府と深くつながり、名門の大名として重んじられた。

1555年

宗滴の死

加賀の一向一揆との戦いのさなかに、宗滴が病で亡くなった。長く朝倉氏を支えてきた柱を失ったことは、義景にとって大きな痛手となった。

1562年

一乗谷の文化

このころ、一乗谷には戦乱の京都をのがれた公家や僧、文化人が多く集まった。義景は和歌や連歌、茶の湯、絵を好み、京都から来た人々と川のほとりで曲水の宴を開くなど、華やかな文化を楽しんだ。

1566年

義昭を迎える

兄の義輝を失った足利義昭が越前に身を寄せ、京都へ戻るための助けを求めた。義景は義昭を手厚くもてなしたが、なかなか兵を出して京都へ攻め上ろうとはしなかった。

1568年

跡継ぎの死

跡継ぎの長男・阿君丸が幼くして急に亡くなり、義景は深く悲しんだ。同じ年、待ちきれなくなった義昭は越前を去って織田信長を頼り、信長とともに京都へ入った。

1570年

金ヶ崎と姉川

信長の呼びかけに従って京都へ行かなかったため、信長に攻められた。浅井長政が信長を裏切って朝倉方についたので信長は退いたが、同じ年の姉川の戦いでは、浅井・朝倉の軍は織田・徳川の軍に敗れた。

1570年

志賀の陣

同じ年の秋、浅井軍とともに比叡山にこもって信長と向かい合った(志賀の陣)。冬になると、将軍義昭や朝廷のとりなしで信長と和睦した。

1572年

信玄との連携

武田信玄が西へ兵を進め、信長包囲網が強まった。義景も近江(滋賀県)に出陣したが、冬になると兵を越前へ引き上げてしまい、信玄を失望させたと伝わる。

1573年

最期

信長に攻められた浅井氏を助けに出たが敗れ、一乗谷へ逃げ帰った。さらに大野へ移ったところで一族の朝倉景鏡に背かれ、自ら命を絶った。一乗谷の町は焼かれ、朝倉氏はほろんだ。町の跡は今、一乗谷朝倉氏遺跡として残る。

この時代に起きたこと

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