何をした人?
越後(現在の新潟県)の戦国大名です。兄に代わって長尾家をつぎ、越後をまとめました。関東管領の上杉氏をついで上杉を名のり、武田信玄と川中島で何度も戦ったほか、関東や北陸にもたびたび兵を出しました。毘沙門天をあつく信仰したことで知られます。
| 名前 | 上杉謙信 |
|---|---|
| 生没年 | 1530年(享禄3年) – 1578年(天正6年) |
| 時代 | 戦国時代 |
| 出身地 | 越後国春日山城(現在の新潟県上越市) |
| 別名 | 長尾景虎、上杉政虎、上杉輝虎 |
| 主な業績 |
|
越後(新潟県)の守護代・長尾為景の子として生まれた。幼い名は虎千代。
このころ、春日山城の下にある林泉寺に入り、天室光育から学問を学んだ。のちに深く仏教を信じるもとになった。
元服して景虎と名のり、栃尾城に入った。兄の晴景に従わない国人たちを相手に戦い、若くして戦上手と知られた。
病弱な兄に代わって長尾家を継ぎ、春日山城に入った。数年のうちに越後をほぼ一つにまとめた。
信濃を追われた村上義清らを助けるため、武田信玄と川中島で戦い始めた。自分の領地を広げるためではなく、助けを求める者のために戦うと語ったと伝わる。この年、京都に上り天皇に会った。
家臣どうしの争いに嫌気がさし、突然城を出て高野山に向かおうとした。家臣たちが忠誠を誓ってひき止め、城に戻った。
関東の大名を率いて小田原城を攻めた。鎌倉の鶴岡八幡宮で上杉家をつぎ、関東管領となった。同じ年、第四次川中島の戦いで信玄と激しく戦った。
このころ謙信と名のった。毘沙門天を深く信じ、「毘」の字の旗をかかげた。生涯妻をめとらなかったとされる。
能登の七尾城を落とし、加賀の手取川で織田軍の柴田勝家らを破った。
次の遠征の準備中に春日山城で倒れ、48歳で亡くなった。跡継ぎを決めていなかったため、養子の景勝と景虎の間で争い(御館の乱)が起きた。
A. 越後(現在の新潟県)の戦国大名です。兄に代わって長尾家をつぎ、越後をまとめました。関東管領の上杉氏をついで上杉を名のり、武田信玄と川中島で何度も戦ったほか、関東や北陸にもたびたび兵を出しました。毘沙門天をあつく信仰したことで知られます。
A. 戦国時代の人物です。1530年(享禄3年)に生まれ、1578年(天正6年)に亡くなりました。
A. 上杉謙信は越後国春日山城(現在の新潟県上越市)の生まれです。
A. 今川・北条氏が武田領への塩の運び込みを止めたとき、謙信は塩を止めず武田方に送らせたという逸話です。困っている敵を助けるたとえになりましたが、史実かどうかははっきりしません(と伝わる話です)。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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