何をした人?
戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将で、「服部半蔵」の名で知られる徳川家康の家臣です。三方ヶ原の戦いなどで活躍し、「鬼半蔵」と呼ばれました。本能寺の変のあと家康が伊賀を越えて三河へ帰ったとき、伊賀・甲賀の者を集めて道案内と護衛にあたったと伝わります。
| 名前 | 服部正成(半蔵) |
|---|---|
| 生没年 | 1542年(天文11年) – 1597年(慶長元年) |
| 時代 | 戦国時代 |
| 出身地 | 三河国 |
| 別名 | 服部半蔵・鬼半蔵 |
| 主な業績 |
|
三河国(愛知県)で、服部保長の子として生まれた。父の保長は伊賀国(三重県)の出身で、室町幕府の将軍に仕えたのち、家康の祖父の松平清康に仕えるようになったと伝わる。正成は、代々受けつがれた通称の「半蔵」の名で広く知られている。
幼いころ、松平氏の菩提寺である大樹寺に預けられた。体が大きく力の強い子どもだったという。しかし僧になることを嫌い、数年後には寺を抜け出したと伝わる。武士として生きる道を、自ら選んだのであった。
三河の宇土城を夜に攻める戦いで手柄を立て、のちの徳川家康から槍を与えられたと伝わる。これが初陣とされるが、時期については諸説ある。伊賀の者たちを率いた夜の戦いで、正成の名が初めて知られるようになった。
三河一向一揆で、家康の家臣の中にも一揆の側につく者が多く出た。正成自身も一向宗の信者だったとされるが、主君の家康への忠義を選び、一揆勢と戦った。この危機を乗りこえたことで、家康は三河をまとめる力を固めていった。
織田・徳川軍が浅井・朝倉軍と戦った姉川の戦いで、敵陣に真っ先に槍を入れる一番槍の手柄を立てたと伝わる。正成は忍びの頭というより、槍を手に先頭に立って戦う武将として名を上げていった。
武田信玄と戦った三方ヶ原の戦いで手柄を立て、徳川軍が大敗すると、家康を守って浜松城へ退いた。この働きで槍を贈られ、伊賀の者たち150人を預けられたと伝わる。勇ましい戦いぶりから「鬼半蔵」と呼ばれた。
家康の長男の信康が切腹することになったとき、その場に立ち会う役として遣わされたと伝わる。介錯を命じられたが、涙を流して刀を下ろせなかったという話が『三河物語』に見える。ただしこの話は、後世の創作とする説もある。
本能寺の変が起こり、わずかな供と堺にいた家康は危険な立場に置かれた。正成は商人の茶屋四郎次郎らとともに伊賀・甲賀の地侍と話をつけて一行を守らせ、伊勢へ抜けて三河へ無事に帰した。これが「伊賀越え」である。
武田氏の旧領をめぐる天正壬午の乱で、伊賀の者たちを率いて甲斐に出陣した。北条氏の大軍と向かい合う中で砦を守り、夜襲をかけるなどの働きをした。伊賀越えで味方になった者たちの多くは、のちに伊賀同心として徳川家に仕えた。
豊臣秀吉と戦った小牧・長久手の戦いで、伊賀・甲賀の鉄砲隊を率いて伊勢の松ヶ島城の守りを助けた。続いて尾張の蟹江城をめぐる戦いにも加わり、徳川方の戦いを支えた。鉄砲を使いこなす部隊の指揮官としても力を示した。
小田原攻めに鉄砲隊の指揮役として加わった。家康が関東へ移ると、伊賀同心200人を預けられ、8000石を与えられた。江戸城の門の一つは、正成の屋敷が近くにあったことから「半蔵門」と呼ばれるようになったと伝わる。
江戸で病のため亡くなった。信康を弔うために建てた寺は、のちに四谷へ移って西念寺となり、正成の墓もここにある。小説や映画では忍者の頭として描かれることが多いが、実際には槍の腕で知られた徳川家の武将であった。
A. 戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将で、「服部半蔵」の名で知られる徳川家康の家臣です。三方ヶ原の戦いなどで活躍し、「鬼半蔵」と呼ばれました。本能寺の変のあと家康が伊賀を越えて三河へ帰ったとき、伊賀・甲賀の者を集めて道案内と護衛にあたったと伝わります。
A. 戦国時代の人物です。1542年(天文11年)に生まれ、1597年(慶長元年)に亡くなりました。
A. 服部正成(半蔵)は三河国の生まれです。
A. 父の服部保長は伊賀の出身ですが、正成自身は三河で生まれ育った武将で、槍をふるって戦場で手柄を立てた人物です。伊賀・甲賀の者たちを率いたことから忍者の頭のイメージが広まりましたが、本人が忍びの術を使ったという確かな記録はありません。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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