何をした人?
徳川家康に幼いころから仕えた三河の武将です。家康が今川氏の人質だったころからそばにいて、長篠の戦いや黒駒の戦いで活躍しました。1600年、伏見城をわずかな兵で守って戦死し、その忠義は「三河武士の鑑」とたたえられました。
| 名前 | 鳥居元忠 |
|---|---|
| 生没年 | 1539年(天文8年) – 1600年(慶長5年) |
| 時代 | 安土桃山時代 |
| 出身地 | 三河国 |
| 主な業績 |
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三河(愛知県)で、松平氏(のちの徳川氏)に仕える鳥居忠吉の三男として生まれた。父の忠吉は岡崎の留守を守る役目をつとめた古くからの家臣で、主君の松平家が苦しいときも、ひそかに蓄えを残して支えたと伝わる。
今川氏の人質として駿府(静岡市)で暮らしていた竹千代(のちの徳川家康)のそばに仕え始めた。元忠は家康より3つ年上で、つらい人質生活をともに過ごした幼なじみのような存在だった。この結びつきが、生涯変わらぬ主従の絆となった。
独立した家康のもとで旗本の部隊を率い、姉川の戦いに加わった。1572年の三方ヶ原の戦いにも参加している。武田氏との戦いでは敵の様子をさぐりに行って鉄砲で足を撃たれ、以後は歩くのに少し不自由が残ったと伝わる。
父の忠吉が亡くなり、元忠が鳥居家の家督を継いだ。兄のひとりは戦で命を落とし、もうひとりは出家していたためである。父と同じく家康に一途に仕える元忠は、徳川家中でも特に信頼される家臣のひとりとなっていった。
織田・徳川連合軍が武田勝頼の軍と戦った長篠の戦いで、石川数正とともに、敵の騎馬隊を防ぐための馬防柵をつくる役目を担った。この柵と鉄砲を組み合わせた戦い方で、連合軍は大勝利をおさめた。
本能寺の変の後、武田氏の旧領の甲斐をめぐって徳川氏と北条氏が争った。元忠は少ない兵で北条氏の大軍の別働隊を黒駒で打ち破り、家康の危機を救った。この功績で甲斐の郡内地方をまかされ、城主となった。
家康にそむいた信濃の真田昌幸を討つため、大久保忠世らとともに上田城を攻めた。しかし昌幸の巧みな戦術に翻弄され、大きな損害を受けて退いた。勇敢な元忠にとっても、苦い敗北の経験となった。
豊臣秀吉の小田原攻めに加わり、その後家康が関東に移ると、下総の矢作(千葉県香取市)で4万石を与えられ、大名となった。北の大名たちへの備えとして重要な場所をまかされたもので、家康の厚い信頼がうかがえる。
家康が会津の上杉景勝を討つため出陣するとき、元忠は京都の伏見城の守りをまかされた。出発の前夜、家康と元忠は夜ふけまで酒をくみかわした。元忠は「一人でも多くの家臣を連れていってください」と答え、家康は涙したと伝わる。
石田三成らが兵を挙げると、伏見城は大軍に囲まれた。元忠はわずかな兵で降伏をこばみ、十日あまり城を守りぬいたが、ついに城は落ち、61歳で戦死した。この戦いで敵を足止めしたことが、関ヶ原の戦いにつながったといわれる。
元忠の忠義は「三河武士の鑑」とたたえられた。家康は最期の地となった伏見城の床板を江戸城に移したと伝わり、その床板は「血天井」として京都の養源院などの寺に今も残る。子の忠政は大名として家を継ぎ、鳥居家は江戸時代を通じて続いた。
A. 徳川家康に幼いころから仕えた三河の武将です。家康が今川氏の人質だったころからそばにいて、長篠の戦いや黒駒の戦いで活躍しました。1600年、伏見城をわずかな兵で守って戦死し、その忠義は「三河武士の鑑」とたたえられました。
A. 安土桃山時代の人物です。1539年(天文8年)に生まれ、1600年(慶長5年)に亡くなりました。
A. 鳥居元忠は三河国の生まれです。
A. 伏見城の戦いで元忠らが最期を迎えた城の床板は、血の跡が残っていたため、供養のために京都の養源院などの寺の天井に使われたと伝わります。これが「血天井」と呼ばれ、今も見ることができます。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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