何をした人?
浄土真宗の本山である本願寺の11世です。少年のうちに本願寺を継ぎ、大坂の石山本願寺を拠点に教団の力を高めました。1570年から約10年にわたり織田信長と戦った石山合戦を指導し、1580年に和睦して大坂を出ました。のちに豊臣秀吉から京都に土地を与えられ、現在の西本願寺のもとを開きました。
| 名前 | 顕如 |
|---|---|
| 生没年 | 1543年(天文12年) – 1592年(天正20年(文禄元年)) |
| 時代 | 戦国時代 |
| 別名 | 光佐 |
| 主な業績 |
|
浄土真宗の本山・本願寺の10世である証如の長男として生まれた。名は光佐で、顕如は号である。当時の本願寺は大坂(石山)に本拠を置き、各地の門徒を束ねる大きな教団に育っていた。幼い顕如は、この大教団の跡継ぎとして大切に育てられた。
父の証如が重い病に倒れたため、急いで得度(出家の儀式)を受けた。翌日に証如が亡くなり、少年のうちに本願寺を継いだ。まだ幼かったため、祖母の鎮永尼や一族の長老たちが補佐して教団を運営した。顕如はこうして、全国の門徒を率いる立場に立った。
公家の三条公頼の娘である如春尼と結婚した。如春尼の姉は甲斐の武田信玄の正室であったため、顕如と信玄は義理の兄弟となった。政略による結婚だったが夫婦の仲は良く、のちに七夕に歌を詠み交わしたことも伝わる。この縁は後の信長との戦いにも関わった。
正親町天皇の命により、本願寺は皇族や摂関家の子が住職を務める格の高い寺である「門跡」に加えられた。父の代から求めてきた願いがかなったもので、本願寺の地位は大きく高まった。顕如のもとで教団は各地に寺を置き、大名に並ぶほどの力を持つようになった。
足利義昭を立てて京都に入った織田信長は、大坂の本願寺に土地の明け渡しなどを求めて圧力を強めた。顕如は全国の門徒に信長と戦うよう呼びかけ、本願寺は兵を挙げた。こうして始まった信長と本願寺の十年に及ぶ戦いを石山合戦という。
本願寺は武田信玄、越前の朝倉氏、近江の浅井氏などと手を結び、のちに将軍義昭も加わって信長を取り囲む勢力の一角となった。伊勢の長島などでは門徒たちが一向一揆を起こして信長軍と激しく戦った。紀伊の雑賀衆も鉄砲を持って本願寺を助けた。
武田信玄が病のため亡くなり、信長を囲む勢力は大きく崩れた。この年、将軍の義昭は京都から追われ、朝倉氏と浅井氏も信長に滅ぼされた。翌年には長島の一向一揆も信長におさえられた。顕如は味方を次々に失いながらも、大坂の本願寺にこもって戦いを続けた。
信長は本願寺を囲んで兵糧を断とうとした。これに対し、中国地方の毛利氏が水軍を送り、大坂湾の木津川口で織田方の水軍を破って本願寺に兵糧を運び入れた。しかし二年後の戦いでは、信長が用意した大きな鉄張りの船とされる船に毛利水軍が敗れ、本願寺はしだいに追いつめられた。
朝廷の仲立ちで信長と和睦し、顕如は大坂の本願寺を出て紀伊の鷺森に移った。しかし長男の教如は和睦に反対して本願寺に残り、戦いを続けようとした。教如もやがて退去したが、その直後に本願寺は火事で焼け落ちた。父と子の意見の違いは、のちまで尾を引くことになった。
本能寺の変のあと天下を握った羽柴(豊臣)秀吉といち早く交わりを結んだ。本拠を和泉の貝塚に移したのち、秀吉から大坂の天満に土地を与えられて本願寺を建てた。秀吉は本願寺の跡地に大坂城を築いた。天満の本願寺は秀吉の強い監督を受け、かつての大きな力は失われていった。
秀吉から京都の七条堀川に寺の土地を与えられ、本願寺は久しぶりに京都に戻ることになった。顕如はこの地で教団を立て直そうと、さっそく寺を建てた。これが現在の西本願寺のもととなった。大坂を出てから各地を移り続けた本願寺は、ようやく落ち着く場所を得た。
京都の本願寺で亡くなった。跡は長男の教如が継いだが、教如に反対する人々や母の如春尼が秀吉に働きかけ、三男の准如が跡継ぎとされた。のちに教如は徳川家康から土地を与えられて別に寺を開き、本願寺は西本願寺と東本願寺に分かれることになった。
A. 浄土真宗の本山である本願寺の11世です。少年のうちに本願寺を継ぎ、大坂の石山本願寺を拠点に教団の力を高めました。1570年から約10年にわたり織田信長と戦った石山合戦を指導し、1580年に和睦して大坂を出ました。のちに豊臣秀吉から京都に土地を与えられ、現在の西本願寺のもとを開きました。
A. 戦国時代の人物です。1543年(天文12年)に生まれ、1592年(天正20年(文禄元年))に亡くなりました。
A. 1570年から1580年まで、大坂の石山本願寺を中心とする本願寺の勢力が織田信長と戦った争いです。顕如は全国の門徒に呼びかけ、毛利氏などとも手を結びましたが、最後は朝廷の仲立ちで和睦し、大坂を明けわたしました。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
この人の一生をたどる(自動再生)九鬼嘉隆徳川家康狩野永徳古田織部竹中重治(半兵衛)浅井長政山内一豊黒田孝高(官兵衛)
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