何をした人?
尾張の身分の低い家に生まれ、織田信長に仕えて出世した武将です。本能寺の変のあと山崎の戦いで明智光秀を破り、大坂城を築いて1590年に天下を統一しました。関白・太政大臣となり、太閤検地や刀狩で近世の社会のしくみを作りましたが、晩年の朝鮮出兵は失敗に終わりました。
| 名前 | 豊臣秀吉 |
|---|---|
| 生没年 | 1537年(天文6年(天文5年説もある)) – 1598年(慶長3年) |
| 時代 | 安土桃山時代 |
| 出身地 | 尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)と伝わる |
| 別名 | 木下藤吉郎、羽柴秀吉、太閤 |
| 主な業績 |
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尾張の中村(名古屋市)で、足軽または農民とされる木下弥右衛門の子として生まれた(生年・家族は諸説あり)。幼いころに父を亡くし、貧しい暮らしの中で育った。
家を出て各地を渡り歩いたあと、このころ織田信長に仕えた。冬の寒い日に信長のぞうりをふところで温めておいた、という話は後の時代に広まった伝説である。気がきき、よく働く者として次第に取り立てられた。
武家の娘・ねね(おね)と結婚した。身分のちがいから反対もあったが、恋愛結婚だったといわれる。ねねは生涯、秀吉を支え続けた。
信長が浅井長政に背かれて越前から退くとき、いちばん危険な最後尾を守る役を引き受け、無事に退いた。この働きで名をあげた。
浅井氏がほろびたあと、その領地をもらい、近江の長浜城主となった。このころ名を羽柴秀吉と改めた。織田家の重臣・丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつもらったといわれる。
信長の命令で、中国地方の毛利氏攻めの総大将となった。播磨の城を次々に攻め、黒田官兵衛や竹中半兵衛ら知恵者に支えられた。
備中高松城を水攻めにしている最中に本能寺の変を知った。すぐに毛利氏と和睦し、約200キロを10日ほどで引き返して(中国大返し)、山崎の戦いで明智光秀を破った。
織田家の跡継ぎをめぐって対立した柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破った。石山本願寺の跡地に、天下統一の拠点となる大坂城を築き始めた。
徳川家康と小牧・長久手で戦ったあと和睦した。この年、武士として初めて関白となった。翌年には太政大臣となり、天皇から豊臣の姓をもらった。
九州の島津氏を従わせた。キリスト教の宣教師を国外に追い出す命令(バテレン追放令)を出した。京都の北野天満宮で、身分を問わずだれでも参加できる北野大茶湯を開いた。
農民から刀や鉄砲を取り上げる刀狩令を出した。検地とあわせて、武士と農民の身分をはっきり分けた(兵農分離)。
小田原の北条氏をほろぼし、東北の大名も従えて、全国を統一した。家康を関東に移した。
茶の湯の師・千利休に切腹を命じた。同じ年、2歳の跡継ぎ鶴松が病で亡くなった。秀吉は深く嘆き、関白の位をおいの秀次にゆずった。
明を征服しようとして、朝鮮に大軍を送った(文禄の役)。はじめは勝ち進んだが、朝鮮の水軍や民衆の抵抗、明の援軍に苦しんだ。翌年、秀頼が生まれた。
わが子・秀頼に跡をつがせたい思いもあり、秀次に謀反の疑いをかけて高野山で自害させた。秀次の妻子も多くが処刑された。
春に京都の醍醐寺で盛大な花見を開いた。その後病に倒れ、五大老に幼い秀頼のことを何度も頼んで、61歳で亡くなった。「露と落ち露と消えにし我が身かな浪速のことも夢のまた夢」の辞世が伝わる。
A. 尾張の身分の低い家に生まれ、織田信長に仕えて出世した武将です。本能寺の変のあと山崎の戦いで明智光秀を破り、大坂城を築いて1590年に天下を統一しました。関白・太政大臣となり、太閤検地や刀狩で近世の社会のしくみを作りましたが、晩年の朝鮮出兵は失敗に終わりました。
A. 安土桃山時代の人物です。1537年(天文6年(天文5年説もある))に生まれ、1598年(慶長3年)に亡くなりました。
A. 豊臣秀吉は尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)と伝わるの生まれです。
A. 太閤検地は全国の田畑の広さや収穫量を統一した基準で調べ、耕す農民を検地帳に登録した政策です。刀狩(1588年)は農民から刀や鉄砲を取り上げた政策で、武士と農民の身分を分けることにつながりました。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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