何をした人?
江戸幕府を開いた武将です。三河の小さな大名の家に生まれ、幼いころは今川氏などの人質として過ごしました。織田信長と同盟を結び、豊臣秀吉に従ったのち、1600年の関ヶ原の戦いに勝って1603年に征夷大将軍となり、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼして約260年続く江戸時代の土台を作りました。
| 名前 | 徳川家康 |
|---|---|
| 生没年 | 1543年(天文11年) – 1616年(元和2年) |
| 時代 | 戦国〜江戸時代 |
| 出身地 | 三河国岡崎(現在の愛知県岡崎市)の岡崎城 |
| 別名 | 竹千代(幼名)、松平元康、大御所 |
| 主な業績 |
|
三河(愛知県)の岡崎城主・松平広忠の子として生まれた。幼い名は竹千代。松平家は東の今川氏と西の織田氏にはさまれた小さな大名だった。幼いころ、母の於大は実家の事情で離縁され、家を去った。
今川氏へ人質として送られる途中、裏切りにあって織田氏のもとへ連れ去られた。2年後、父が亡くなり、人質交換で今川氏の駿府(静岡市)に移された。少年時代を人質として過ごしたが、今川家のもとで学問や武芸を身につけた。
今川義元の姪にあたる瀬名(築山殿)と結婚した。翌年には初めて戦に出た。
桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、混乱にまぎれて故郷の岡崎城に戻り、今川氏から独立した。17歳だった。
織田信長と清洲同盟を結んだ。この同盟は信長が亡くなるまで20年守られた。
家臣の多くが加わった一向一揆に苦しんだが、翌年までにしずめた。これを乗りこえて、家臣団の結びつきは強くなった。
三河を統一し、朝廷の許しを得て姓を徳川と改めた。
武田信玄の大軍と三方ヶ原で戦って大敗し、命からがら浜松城に逃げ帰った。このときの苦しい顔をえがかせ、いましめにしたという「しかみ像」の話が伝わる(諸説あり)。
信長から武田氏との内通を疑われ、妻の築山殿を失い、長男の信康は自ら命を絶った(理由には諸説あり)。家康にとって大きな悲しみとなった。
堺にいたときに本能寺の変が起き、危険な伊賀の山道をこえて三河に逃げ帰った。その後、主を失った甲斐・信濃を手に入れた。
信長の子・信雄とともに羽柴秀吉と戦い、長久手で勝った。しかし信雄が秀吉と和睦したため、やがて秀吉に従った。
秀吉の命令で、北条氏がほろびたあとの関東へ移り、江戸城に入った。湿地の多い江戸の町づくりを、一から始めた。
秀吉から五大老の筆頭として秀頼を支えるよう頼まれた。秀吉が亡くなると、ほかの大名と次々に縁組みを結び、力を強めた。
石田三成らの西軍と関ヶ原で戦った。小早川秀秋らが味方に寝返り、わずか一日ほどで勝利した。天下の実権を手にした。
60歳で征夷大将軍となり、江戸に幕府を開いた。2年後には将軍職を子の秀忠にゆずり、将軍は徳川家が代々つぐことを世に示した。
駿府城に移り、「大御所」として政治の実権をにぎり続けた。朝鮮との国交を回復し、オランダやイギリスとの貿易を許し、ウィリアム・アダムスを外交の相談役にした。
豊臣家が建てた方広寺の鐘に刻まれた文字に家康をのろう意味があるとして、大坂城を攻めた。いったん和睦し、城の堀を埋めさせた。
ふたたび大坂城を攻めて豊臣家をほろぼした。大名を取りしまる武家諸法度を定め、長く続いた戦乱の世は終わった(元和偃武)。
太政大臣となったが、まもなく駿府で73歳で亡くなった。のちに日光東照宮にまつられた。江戸幕府はこのあと約260年続いた。
A. 江戸幕府を開いた武将です。三河の小さな大名の家に生まれ、幼いころは今川氏などの人質として過ごしました。織田信長と同盟を結び、豊臣秀吉に従ったのち、1600年の関ヶ原の戦いに勝って1603年に征夷大将軍となり、大坂の陣で豊臣氏を滅ぼして約260年続く江戸時代の土台を作りました。
A. 戦国〜江戸時代の人物です。1543年(天文11年)に生まれ、1616年(元和2年)に亡くなりました。
A. 徳川家康は三河国岡崎(現在の愛知県岡崎市)の岡崎城の生まれです。
A. 1603年、徳川家康が征夷大将軍に任じられたときです。2年後の1605年には将軍職を子の秀忠にゆずり、自分は駿府(静岡)で大御所として実権をにぎり続けました。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
この人の一生をたどる(自動再生)今川義元武田信玄織田信長石田三成小早川秀秋太田道灌太原雪斎滝川一益
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