何をした人?
豊臣秀吉の弟で、兄の天下統一を支えた武将です。中国攻めや四国攻め、九州攻めで大軍を率い、大和・紀伊・和泉を治めて「大和大納言」と呼ばれました。温厚で諸大名の取りなし役を務めたと伝わり、2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主人公です。
| 名前 | 豊臣秀長 |
|---|---|
| 生没年 | 1540年(天文9年) – 1591年(天正19年) |
| 時代 | 安土桃山時代 |
| 出身地 | 尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)と伝わる |
| 別名 | 小一郎、羽柴秀長、大和大納言 |
| 主な業績 |
|
尾張国中村(名古屋市)で生まれた。母は秀吉と同じなか(のちの大政所)で、父は竹阿弥とする説が多いが、諸説ある。通称は小一郎。農家に育ち、若いころは村で田畑を耕して暮らしていたと伝わる。
早くから兄の秀吉に呼ばれて織田家に仕え、兄の右腕として働いていた。浅井氏がほろびて秀吉が北近江を与えられ長浜城主になると、秀長は兄が戦で留守のあいだ城と領地を守ったと伝わる。目立たないが確かな働きで、兄の信頼を集めた。
このころ、のちに築城の名人として知られる藤堂高虎を家臣に迎えた。高虎はそれまで何度も主君を変えていたが、秀長のもとでは長く仕え、戦や城づくりで力をのばした。秀長は家臣の才能を見ぬいて大切にする人だったと伝わる。
秀吉が信長の命で中国地方の毛利氏攻めを始めると、秀長は但馬(兵庫県北部)の攻略を任され、竹田城などを落とした。その後も但馬の平定と支配を進め、兄とは別の方面を一人で任されるほどの武将に成長した。
本能寺の変で信長が倒れると、秀長は兄とともに毛利氏と和睦して急いで京へ引き返し(中国大返し)、山崎の戦いで明智光秀を破るのに加わった。この勝利で秀吉は信長の後継者争いの先頭に立った。
柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、秀長は大軍を率いて秀吉方の陣を守り、兄が美濃へ向かっているあいだも柴田軍の動きを抑えた。勝家がほろびて秀吉の天下取りが大きく進み、秀長もその中心で重みを増していった。
病気の秀吉に代わって総大将として四国へ渡り、長宗我部元親を降伏させた。この年には紀州攻めにも加わり、功績により大和・紀伊・和泉を与えられて大和郡山城(奈良県)に入り、約100万石の大名となった。
九州の大友宗麟が大坂城を訪ねて秀吉に助けを求めたとき、秀長が「内々のことは宗易(千利休)に、公のことは宰相(秀長)に」と語ったと、宗麟の手紙に残る。この年、上洛した徳川家康が秀長の屋敷に泊まったとも伝わり、大名との仲立ちを担った。
秀吉の九州攻めでは日向方面の大将として進み、根白坂の戦いで島津軍を破って、島津義久の降伏につなげた。この年、朝廷から大納言に任じられ、「大和大納言」と呼ばれるようになった。
このころから病気がちとなり、秀吉が北条氏を攻めた小田原攻めには加わることができなかった。兄の天下統一が完成する一方で、それを支えてきた秀長の体は弱っていき、秀吉は弟の回復を願って寺社に祈らせたと伝わる。
大和郡山城で病のため亡くなった。秀長の死の後、千利休の切腹や朝鮮出兵など豊臣政権には大きな出来事が続き、兄をいさめ大名たちをまとめた秀長がもっと長く生きていれば、と惜しむ声がのちの時代まで語られている。
A. 豊臣秀吉の弟で、兄の天下統一を支えた武将です。中国攻めや四国攻め、九州攻めで大軍を率い、大和・紀伊・和泉を治めて「大和大納言」と呼ばれました。温厚で諸大名の取りなし役を務めたと伝わり、2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主人公です。
A. 安土桃山時代の人物です。1540年(天文9年)に生まれ、1591年(天正19年)に亡くなりました。
A. 豊臣秀長は尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)と伝わるの生まれです。
A. 兄の秀吉を戦でも政治でも支え、大名たちの不満をやわらげる役目を果たしたと伝わるためです。1591年に秀長が亡くなったあと、千利休の切腹や朝鮮出兵が続き、豊臣政権が揺らいだと見る考えもあります。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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鍋島直茂本多正信長宗我部元親長谷川等伯九鬼嘉隆徳川家康狩野永徳古田織部
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