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豊臣秀長

武将・豊臣秀吉の弟
時代:安土桃山時代 / 1540年〜1591年(51歳ほど)

何をした人?
豊臣秀吉の弟で、兄の天下統一を支えた武将です。中国攻めや四国攻め、九州攻めで大軍を率い、大和・紀伊・和泉を治めて「大和大納言」と呼ばれました。温厚で諸大名の取りなし役を務めたと伝わり、2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主人公です。

プロフィール

名前豊臣秀長
生没年1540年(天文9年) – 1591年(天正19年)
時代安土桃山時代
出身地尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)と伝わる
別名小一郎、羽柴秀長、大和大納言
主な業績
  • 兄・秀吉の中国攻め・四国攻め(1585年)・九州攻め(1587年)で活躍
  • 大和郡山城を本拠に大和・紀伊・和泉を治める
  • 大名たちの取りなし役として豊臣政権を支える
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歩んだ道

1540年

誕生

尾張国中村(名古屋市)で生まれた。母は秀吉と同じなか(のちの大政所)で、父は竹阿弥とする説が多いが、諸説ある。通称は小一郎。農家に育ち、若いころは村で田畑を耕して暮らしていたと伝わる。

1573年

兄を支える

早くから兄の秀吉に呼ばれて織田家に仕え、兄の右腕として働いていた。浅井氏がほろびて秀吉が北近江を与えられ長浜城主になると、秀長は兄が戦で留守のあいだ城と領地を守ったと伝わる。目立たないが確かな働きで、兄の信頼を集めた。

1576年

藤堂高虎を迎える

このころ、のちに築城の名人として知られる藤堂高虎を家臣に迎えた。高虎はそれまで何度も主君を変えていたが、秀長のもとでは長く仕え、戦や城づくりで力をのばした。秀長は家臣の才能を見ぬいて大切にする人だったと伝わる。

1577年

但馬の攻略

秀吉が信長の命で中国地方の毛利氏攻めを始めると、秀長は但馬(兵庫県北部)の攻略を任され、竹田城などを落とした。その後も但馬の平定と支配を進め、兄とは別の方面を一人で任されるほどの武将に成長した。

1582年

本能寺の変のあと

本能寺の変で信長が倒れると、秀長は兄とともに毛利氏と和睦して急いで京へ引き返し(中国大返し)、山崎の戦いで明智光秀を破るのに加わった。この勝利で秀吉は信長の後継者争いの先頭に立った。

1583年

賤ヶ岳の戦い

柴田勝家との賤ヶ岳の戦いでは、秀長は大軍を率いて秀吉方の陣を守り、兄が美濃へ向かっているあいだも柴田軍の動きを抑えた。勝家がほろびて秀吉の天下取りが大きく進み、秀長もその中心で重みを増していった。

1585年

四国攻めと大和郡山

病気の秀吉に代わって総大将として四国へ渡り、長宗我部元親を降伏させた。この年には紀州攻めにも加わり、功績により大和・紀伊・和泉を与えられて大和郡山城(奈良県)に入り、約100万石の大名となった。

1586年

政権のまとめ役

九州の大友宗麟が大坂城を訪ねて秀吉に助けを求めたとき、秀長が「内々のことは宗易(千利休)に、公のことは宰相(秀長)に」と語ったと、宗麟の手紙に残る。この年、上洛した徳川家康が秀長の屋敷に泊まったとも伝わり、大名との仲立ちを担った。

1587年

九州攻めと大和大納言

秀吉の九州攻めでは日向方面の大将として進み、根白坂の戦いで島津軍を破って、島津義久の降伏につなげた。この年、朝廷から大納言に任じられ、「大和大納言」と呼ばれるようになった。

1590年

病に伏す

このころから病気がちとなり、秀吉が北条氏を攻めた小田原攻めには加わることができなかった。兄の天下統一が完成する一方で、それを支えてきた秀長の体は弱っていき、秀吉は弟の回復を願って寺社に祈らせたと伝わる。

1591年

最期

大和郡山城で病のため亡くなった。秀長の死の後、千利休の切腹や朝鮮出兵など豊臣政権には大きな出来事が続き、兄をいさめ大名たちをまとめた秀長がもっと長く生きていれば、と惜しむ声がのちの時代まで語られている。

この時代に起きたこと

よくある質問

Q. 豊臣秀長は何をした人ですか?

A. 豊臣秀吉の弟で、兄の天下統一を支えた武将です。中国攻めや四国攻め、九州攻めで大軍を率い、大和・紀伊・和泉を治めて「大和大納言」と呼ばれました。温厚で諸大名の取りなし役を務めたと伝わり、2026年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主人公です。

Q. 豊臣秀長はいつの時代の人ですか?

A. 安土桃山時代の人物です。1540年(天文9年)に生まれ、1591年(天正19年)に亡くなりました。

Q. 豊臣秀長の出身地はどこですか?

A. 豊臣秀長は尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)と伝わるの生まれです。

Q. なぜ豊臣秀長は「名補佐役」と言われるのですか?

A. 兄の秀吉を戦でも政治でも支え、大名たちの不満をやわらげる役目を果たしたと伝わるためです。1591年に秀長が亡くなったあと、千利休の切腹や朝鮮出兵が続き、豊臣政権が揺らいだと見る考えもあります。

参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata

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