福岡県の今宿村で、七人きょうだいの長女として生まれた。家はかつて海産物問屋だったが、すでに落ちぶれており、母が日雇いの仕事などで暮らしを支えていた。小学校の低学年のころには、家の口減らしのために叔母の家へ預けられたという。
高等小学校を卒業すると、家計を助けるため地元の郵便局で働きながら、雑誌に詩や短歌を投稿した。夏に東京から帰ってきた叔母の一家に接して都会へのあこがれを強め、ひとかどの人物になって恩返しをするという手紙を叔父に送って頼みこみ、その年の暮れに東京へ迎えられた。
猛勉強のすえに上野高等女学校の編入試験に合格し、とくに作文ですぐれた成績をあげた。この女学校で英語の教師をしていた辻潤と知り合った。辻は文学や思想に詳しい人物で、学ぶことに飢えていた彼女は大きな刺激を受け、やがて強く心を寄せるようになっていった。
卒業して帰郷すると、親が決めた相手との結婚がすでに進められていた。しぶしぶ嫁いだものの八日目に家を出て再び東京へ向かい、辻のもとで暮らし始めた。辻の勧めで平塚らいてうに手紙を出して訪ね、女性たちの文学の集まりである青鞜社に通うようになった。
雑誌『青鞜』に詩などの作品を次々に発表して頭角を現した。青鞜社に集まる与謝野晶子や岡本かの子ら「新しい女」と呼ばれた女性たちと親しくなり、強い刺激を受けた。この年には辻との間に長男が生まれ、子育てをしながら文章を書く日々が続いた。
たびたび発売禁止を受けて苦しい経営が続いていた雑誌『青鞜』の編集と発行を平塚らいてうから引き継いだ。「無主義、無規則、無方針」をかかげて一般の女性にも誌面を開き、文芸の雑誌から女性の生き方を論じ合う雑誌へと変えていった。この年に次男も生まれた。
無政府主義に共鳴して大杉栄と行動をともにするようになり、『青鞜』は休刊となった。辻と別れて家族や仕事を離れ、大杉と暮らし始めた。しかし大杉をめぐる複雑な男女関係は、大杉が別の女性に刺されて大けがを負う日蔭茶屋事件を招き、世間から厳しい非難を浴びた。
大杉との間に長女が生まれた。周りから「悪魔」とののしられたことを逆手にとって、娘に「魔子」と名づけたという。暮らしは貧しく、警察に見張られる日々が続いたが、大杉との生活は充実していた。このあとも子どもたちを次々に産み育てながら、文章を書き続けた。
大杉とともに雑誌『文明批評』を創刊し、翌年には『労働運動』も創刊した。働く人々の立場から社会を論じ、ロシアの思想家クロポトキンの研究などを大杉と共同で発表した。夫婦で筆をふるいながら、苦しい暮らしの中でも社会を変えたいという思いを持ち続けた。
社会主義の女性団体である赤瀾会が結成されると、山川菊栄らとともに参加した。このころには働く女性の目覚めを訴える文章や、結婚の制度そのものを問い直す評論も発表した。こうした主張は、半世紀ほどのちの女性解放運動の考えを先取りしていたとも評価されている。
大杉と離れて勉強するために、幼い娘たちを連れて故郷の今宿村へ帰った。このころ大杉のもとに、ヨーロッパで開かれる無政府主義者の国際大会への招待状が届いた。大杉はその年の暮れにひそかに日本を抜け出し、上海を経てフランスへ向かった。
夏に神戸で、帰国した大杉を出迎え、その後男の子を産んだ。秋、関東大震災後の混乱が続く中、大杉やおいの少年とともに憲兵に連れ去られ、甘粕事件で命を奪われた。のちに彼女の文章や生き方は改めて見直され、近年では故郷を訪れる人もいるという。
菊池寛賀川豊彦岸田劉生金栗四三芥川龍之介市川房枝宮沢賢治金子みすゞ
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。