下総国古河(茨城県古河市)で、古河藩士・河鍋記右衛門の子として生まれた。翌年、父が江戸で勤めることになり、一家で江戸へ移った。暁斎は幼いころから絵を描くことが大好きで、生きものの動きをじっと見つめては写していたと伝わる。
幼くして浮世絵師の歌川国芳に入門し、絵の手ほどきを受けた。国芳は武者絵や戯画で人気の絵師で、自由で大胆な表現を好んだ。暁斎が生涯もち続けた、ユーモアと迫力のある絵の感覚は、この国芳のもとで芽生えたといわれる。
父の考えもあって国芳のもとを離れ、幕府の御用絵師の流れをくむ狩野派の前村洞和に入門し、のちに狩野洞白のもとで学んだ。狩野派では古い名画を何度も写す厳しい修業が行われ、暁斎は確かな筆づかいと幅広い画法を身につけた。
狩野派での修業を終え、「洞郁陳之」という画号を許された。一人前の絵師として認められたことを意味した。しかし暁斎は狩野派の型だけにとらわれず、浮世絵や他の流派の画法も取り入れて、自分だけの絵を求めていった。
このころから「狂斎」と名乗り、町の人々に向けた戯画や風刺画、錦絵を多く描いて人気を集めた。妖怪や動物を人間のようにえがき、世の中をおもしろおかしく皮肉る絵は、幕末の不安な世の中で人々を楽しませた。
書画会の席で酒に酔って描いた絵が、新政府の役人をからかったものとされ、捕らえられてしばらく牢に入れられた。翌年に許されたあと、画号の「狂」の字を「暁」に改め、「暁斎」と名乗るようになった。
東京の歌舞伎劇場・新富座のために、幅およそ17メートルもの大きな引幕に、役者たちを妖怪の姿に見立てた絵を描いた。わずか数時間で描き上げたと伝わり、暁斎の筆の速さと大胆さを示す作品として知られている。
第2回内国勧業博覧会に出した「枯木寒鴉図」が、絵画で最も高い賞を受けた。暁斎がこの絵に百円という当時としては非常に高い値をつけたことが話題となり、「百円の鴉」として知られた。暁斎は「長年の修業の値段だ」と語ったと伝わる。
鹿鳴館などを設計したイギリス人建築家ジョサイア・コンドルが暁斎に入門し、「暁英」の名を与えられた。コンドルは暁斎と旅をし、その絵の描き方を熱心に学んで、のちに暁斎の絵を海外に紹介した。暁斎の作品は欧米でも高く評価されるようになった。
自らの絵の学び方や画法をまとめた『暁斎画談』を出版した。国芳と狩野派で学んだ若いころの修業のようすや、さまざまな流派の描き方が絵入りで紹介されており、暁斎の絵に対する真剣な姿勢を今に伝えている。
胃の病のため東京で亡くなった。最後まで筆を離さず、病床でも絵を描き続けたと伝わる。娘の暁翠も絵師として父の画風を受けついだ。狩野派と浮世絵の両方を学び、ユーモアと迫力に満ちた絵を残した暁斎は、近年、国内外で改めて注目を集めている。
副島種臣西周由利公正大久保利通中村正直寺島宗則木戸孝允大鳥圭介
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。