江戸の酒井家の屋敷で、酒井忠行の長男として生まれた。酒井家は三河時代から徳川家に仕えてきた名門で、祖父の忠世は家康・秀忠・家光の三代に仕えた重臣であった。幼いころのことはよくわかっていないが、江戸の屋敷で育てられたと考えられている。
将軍徳川家光が祖父忠世の屋敷を訪れた際、幼い忠清も初めて将軍に会い、家光から脇差を与えられた。数日後には大御所秀忠も屋敷を訪れ、忠清はここでも刀を贈られている。名門の跡取りとして、幼いころから将軍家に目をかけられていたことがわかる。
前の年に祖父と父が相次いで亡くなり、忠清は上野の厩橋藩(今の前橋)10万石を継いだ。弟の忠能にも別に領地が分けられた。まだ若い忠清にとって、名門の当主として家を背負う重い役目の始まりであった。翌年には弟とともに初めて領地の上野に入っている。
江戸城に仕えるようになり、父も務めた奏者番に任じられた。大名が将軍に会う際の取り次ぎなどを担う役で、忠清は武家のしきたりを身につけ、城内のさまざまな儀式を務めた。ここで身につけた知識と人脈が、のちに幕府の政治を動かす力の土台となった。
将軍家光が亡くなり、まだ幼い家綱が4代将軍となった。この年、京都を訪れた忠清は、物乞いを助けるための小屋が並ぶのを見て、本当の良い政治とは物乞いのいない世をつくることだと語ったという話が残る。ただしこの逸話が確かかどうかは、諸説ある。
老中に任じられ、就任と同時にその筆頭の地位についた。松平信綱、阿部忠秋といった経験豊かな老中たちとともに、幼い将軍家綱を支えて幕府の政治を進めた。武力よりも法や儀礼によって世を治める政治への移り変わりの中で、忠清は重い責任を担うことになった。
土佐藩と宇和島藩の領地争いが幕府に持ちこまれた。他の老中たちがそれまでの先例を破る裁きを下そうとすると、忠清は将軍自身の判断が大切だとして、江戸城での裁きを強く求めた。信綱から強く批判されたが、結局家光時代の先例に従った裁きで決着した。
幕府の最高の役職である大老に就いた。将軍家綱は家臣の意見に「そのようにせよ」と答えることが多かったため「左様せい様」と呼ばれ、忠清が大きな力をふるったといわれる。酒井家の屋敷が江戸城の下馬札の近くにあったことから、のちに「下馬将軍」とあだ名された。
仙台藩の伊達家で起きたお家騒動、いわゆる伊達騒動の取り調べが忠清の屋敷で行われ、その場で藩士どうしの争いが起きて死者が出る痛ましい事態となった。のちの芝居や小説では、忠清は騒動の黒幕のような悪役として描かれたが、それは創作によるものである。
家綱が重い病になると、忠清は皇族を将軍に迎えようとしたとする説があるが、確かではない。家綱が亡くなり、弟の綱吉が5代将軍となると、忠清はこの年の暮れに病気療養を命じられて大老を辞めさせられた。権勢を誇った時代は、こうして幕を閉じた。
隠居してまもなく亡くなり、領地の前橋の龍海院に葬られた。死があまりに急だったため、綱吉が疑いをもったという話も伝わる。後世は専制的な人物と評されがちだが、近年は将軍の判断や先例を重んじた政治家として見直す見方もある。
熊沢蕃山天草四郎三井高利山鹿素行伊藤仁斎徳川光圀貝原益軒渋川春海
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。