日本史人生シミュレーター

松平信綱

「知恵伊豆」と呼ばれた老中
時代:江戸時代 / 1596年〜1662年(66歳ほど)
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歩んだ道

1596年

誕生

武蔵で、徳川家の代官をつとめる大河内久綱の子として生まれた。父は家康に仕える役人で、身分はそれほど高くなかった。信綱は幼いころから利発で、自分の将来を早くから考える子だったと伝わる。

1601年

松平正綱の養子となる

叔父の松平正綱の養子となり、松平の名字を名のった。将軍家に近い松平の名を得たいと、幼い信綱が自ら願い出たという話が伝わる。正綱は家康の側近で、信綱は将軍家に仕える道を開いた。

1604年

家光の小姓となる

この年に生まれた徳川秀忠の子竹千代(のちの家光)に仕える小姓となった。わずか8歳での出仕だった。以後、信綱は家光の成長をそばで見守り、主君からの厚い信頼を得て、生涯を通じて仕えることになる。

1623年

家光が3代将軍となる

家光が3代将軍となると、信綱は側近として重く用いられた。幼いころから仕えた主君の信頼のもと、加増を重ねて大名へと出世していった。仕事が早く、判断が的確な人物として知られるようになった。

1633年

老中となる

老中に任じられ、武蔵の忍藩主となった。幕府の政治の中心に立った信綱は、才知にすぐれ、官名の伊豆守から「知恵伊豆」と呼ばれた。家光の時代の幕府の仕組みづくりに深く関わった。

1638年

島原の乱をしずめる

九州の島原・天草でおきた大きな一揆に対し、最初の総大将板倉重昌が戦死すると、信綱が代わって総大将となった。原城を大軍で囲み、食料が尽きるのを待つ作戦で城を落とした。乱はこうしてしずまった。

1639年

川越藩主となる

島原の乱の功で武蔵の川越藩主となった。城下町の整備や新田の開発、新河岸川の舟運を開くなどして川越の発展の土台を築いた。この年、幕府はポルトガル船の来航を禁じ、鎖国の体制が整った。

1651年

家光の死と慶安の変

家光が亡くなり、九歳の家綱が4代将軍となった。直後に由井正雪らが幕府を倒そうとした慶安の変がおこったが、計画は事前にもれ、信綱らがすばやく対処した。これを機に浪人を減らす政策がとられた。

1653年

玉川上水を開く

江戸の水不足を解くため、多摩川から江戸へ水を引く玉川上水の工事が始まり、信綱は総奉行として指揮した。翌年に完成し、江戸の町に飲み水が届けられた。さらに自領の武蔵野に野火止用水を引いて新田開発を進めた。

1657年

明暦の大火の復興

江戸の大半を焼いた明暦の大火がおこり、江戸城の天守も失われた。信綱は救援や町の立て直しを指揮し、道を広げたり火よけ地を設けたりして燃えにくい町づくりを進めた。天守は再建されなかった。

1662年

川越で死去

家光・家綱の二代にわたって幕府を支えた信綱は、病のため亡くなった。島原の乱の鎮圧から江戸の町づくりまで、幕府の基礎を固める多くの仕事に関わり、その才知は後の世まで語り伝えられた。

この時代に起きたこと

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