何をした人?
幕末の新選組の隊士で、明治時代の警察官です。江戸に生まれ、京都で新選組に加わって副長助勤や組長として働きました。戊辰戦争では会津に残ってたたかい、明治になると藤田五郎と名を改めて警視庁に勤め、西南戦争にも出征しました。晩年は東京の学校で働きました。
| 名前 | 斎藤一 |
|---|---|
| 生没年 | 1844年(天保15年) – 1915年(大正4年) |
| 時代 | 江戸末〜大正時代 |
| 出身地 | 江戸 |
| 別名 | 藤田五郎 |
| 主な業績 |
|
江戸で、山口祐助の子として生まれたとされる。初めの名は山口一で、「一」は一月一日生まれにちなむと子孫に伝わる。父は播磨の明石藩の足軽から江戸に出て、のちに幕府の御家人になったといわれる。生まれた場所を明石とする説もあり、出自には不明な点が多い。
若いころ剣術にはげみ、近藤勇の道場試衛館に出入りしていたとする記録もある。この年ごろ、江戸で旗本と争いごとを起こし、父の友人を頼って京都に身を隠したと伝わる。京都では剣術道場の師範代を務めたといわれるが、詳しいことは諸説あり、はっきりしない。
芹沢鴨や近藤勇らが京都で壬生浪士組をつくると、すぐに加わった。この組はのちに新選組となり、京都守護職の会津藩主松平容保のもとで京の治安を守った。斎藤は若くして副長助勤という幹部に選ばれ、のちには隊の組長や剣術の師範も務めた。
京都の旅館池田屋に集まった尊王攘夷派の志士たちを新選組が襲った池田屋事件では、土方歳三の隊に属して働いた。事件のあと、幕府と会津藩からほうびの金を与えられた。沖田総司や永倉新八と並ぶ新選組屈指の剣の使い手として知られるようになった。
伊東甲子太郎が新選組を離れて御陵衛士をつくると、斎藤もこれに加わった。しかし、これは新選組のために様子をさぐる役目だったとされ、やがて新選組に戻った。斎藤が持ち帰った知らせが、のちの新選組と御陵衛士の争いにつながったともいわれる。
京都の天満屋で紀州藩士の警護中に襲われたが、着こんでいた鎖かたびらのおかげで無事だったという。まもなく戊辰戦争が始まり、鳥羽・伏見の戦い、甲州勝沼の戦いと、いずれも最前線でたたかったが、旧幕府軍は敗れ続けた。近藤勇が新政府軍に降ると、土方歳三らと北へ向かった。
会津藩の指揮下で新選組の隊長となり、白河口や母成峠でたたかった。土方歳三らが会津を離れたあとも、斎藤は会津に残って会津藩士とともに抵抗を続けた。会津戦争で藩が降伏したあともたたかい続けたが、松平容保の使いに説得されてようやく武器をおいた。
会津藩士とともに謹慎生活を送ったあと、会津松平家の再興が許されると、新しくつくられた斗南藩の藩士として、本州の北の端、下北半島などの寒く厳しい土地に移った。五戸で暮らし、会津藩士の家の娘やそと結婚した。かつての敵味方をこえ、会津の人々と運命をともにした。
元会津藩の重臣の娘時尾と再婚し、旧藩主松平容保が仲人を務めた。このとき名を藤田五郎に改めた。同じ年に東京へ移り、大警視川路利良のもとで新しくできた警視庁に採用され、情報を集める仕事などにたずさわった。武士から警察官への転身だった。
新選組の数少ない生き残りとして、医師松本良順や元隊士永倉新八らとともに、東京の滝野川に近藤勇と土方歳三の墓と新選組の慰霊碑を建てた。命を落とした仲間たちをしのぶための碑で、今も新選組ゆかりの地として多くの人が訪れている。
西南戦争が起こると、警視局の警部補として警察官の部隊に加わって出征した。敵陣に切りこんだときに銃弾で負傷しながらも、敵の大砲二門を奪う手がらを立てたと新聞で報じられた。戦後、政府から勲章と賞金を与えられた。かつての会津の仲間たちも多く従軍していた。
警察を退いたあと、会津出身の高嶺秀夫らのすすめで、高等師範学校の附属博物館の看守となった。学校では剣術の師範として生徒を教え、その腕はおとろえず、生徒はだれも斎藤の竹刀にふれることさえできなかったと伝わる。のちに女子高等師範学校でも事務の仕事を務めた。
東京の本郷の家で、胃の病のため亡くなった。床の間で座禅を組んだまま息を引き取ったと伝えられている。墓は会津若松の寺にある。新選組の剣士から警察官、教育の場へと生き方を変えながら、激動の時代を生きぬいた生涯は、のちに多くの小説や漫画で描かれた。
A. 幕末の新選組の隊士で、明治時代の警察官です。江戸に生まれ、京都で新選組に加わって副長助勤や組長として働きました。戊辰戦争では会津に残ってたたかい、明治になると藤田五郎と名を改めて警視庁に勤め、西南戦争にも出征しました。晩年は東京の学校で働きました。
A. 江戸末〜大正時代の人物です。1844年(天保15年)に生まれ、1915年(大正4年)に亡くなりました。
A. 斎藤一は江戸の生まれです。
A. 会津藩士とともに斗南藩へ移ったあと、藤田五郎と名を改めて東京の警視庁に勤めました。元会津藩の重臣の娘時尾と結婚し、西南戦争にも警察官の部隊として加わりました。警察を退いたあとは東京の学校で働き、1915年に亡くなりました。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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