備中(岡山県)の赤浜に生まれた。名は等楊。幼いころ近くの宝福寺に入った。
このころ、絵ばかり描いて修行をしないので柱にしばられたが、床に落ちた涙を足の指でなぞってねずみを描き、和尚を驚かせたという話が伝わる(伝説)。
このころ京都の相国寺に移り、禅の修行をしながら、絵を天章周文に学んだとされる。周文は幕府に仕える画僧だった。
このころ京都を離れ、周防(山口県)の大名・大内氏のもとへ移った。山口に画室・雲谷庵を構え、「雪舟」と名のるようになった。
応仁の乱が始まったこの年、大内氏の遣明船に乗って明(中国)へ渡った。名高い天童山景徳寺で、禅僧として高い位(首座)を与えられた。北京では役所の壁画を描いたと伝わる。
中国の自然や名画にふれて帰国した。「中国には師とすべき画家はいなかった。師は中国の山や川そのものだった」と語ったと伝わる。
このころ豊後(大分県)に画室「天開図画楼」を開いた。応仁の乱で荒れた京都には戻らず、各地を旅しながら風景を描いた。
66歳で、長さ約16メートルの大作「四季山水図巻(山水長巻)」を描いた。春から冬へ、季節の移り変わりを一続きの絵巻にえがいている。
弟子の宗淵が故郷に帰るとき、はなむけに「破墨山水図」を描いて与えた。墨をにじませて一気に描いた作品で、そこに自分の絵の学び方も書き記した。
このころ、80歳を過ぎて丹後(京都府)の天橋立を訪れ、空から見下ろしたような「天橋立図」を描いたと考えられている。年老いても旅を続け、実際の風景を描いた。
このころ亡くなったと考えられている(没年・場所は諸説あり)。日本の自然を力強く描いた水墨画は、のちの画家たちに大きな影響を与えた。
山名宗全日親上杉憲実蓮如宗祇朝倉孝景(敏景)細川勝元太田道灌
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。