日本史人生シミュレーター

上杉憲実

関東管領・足利学校の再興者
時代:室町時代 / 1410年〜1466年(56歳ほど)
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歩んだ道

1410年

誕生

越後の守護上杉房方の子として生まれた。生年は1411年とする説もあり、諸説ある。上杉氏は足利氏の親戚で、関東では鎌倉公方を補佐する関東管領をつとめる名門だった。

1419年

山内上杉家を継ぐ

関東管領だった上杉憲基が若くして亡くなり、その養子として山内上杉家を継いだ。まだ少年だったが、のちに関東管領に就き、鎌倉公方足利持氏を支える立場に立った。若い主従の関係はやがて難しいものになっていく。

1428年

持氏をいさめる

将軍足利義持が亡くなると、持氏は自分が将軍になることを望んだが、くじ引きで義教が選ばれた。不満をもつ持氏は幕府と対立を深めた。憲実は幕府との争いを避けるよう持氏をいさめ、両者の間を取りもとうと努めた。

1432年

足利学校を再興する

このころ下野の足利荘を治めるようになり、衰えていた足利学校の再興に力を注いだ。学問を重んじた憲実は、のちに中国の貴重な書物を寄進し、鎌倉円覚寺の僧快元を学校の長に招いたと伝わる。

1438年

永享の乱

持氏が嫡子の元服を将軍の名を借りずに行うなど、幕府への反発を強めると、憲実は身の危険を感じて上野へ退いた。持氏が憲実を討とうとしたため、将軍義教は持氏討伐を命じ、憲実も幕府方として戦うことになった。

1439年

持氏の最期と出家

敗れた持氏について憲実は命を助けるよう願ったが、義教は許さず、持氏は鎌倉の永安寺で自ら命を絶った。主君を死に追いやったことに苦しんだ憲実は、自らも命を絶とうとしたと伝わり、出家して長棟と名のった。

1439年

書物の寄進

足利学校に宋の時代に刷られた貴重な書物を寄進し、学問の場としての土台を固めた。このころ学校の決まりも定めたと伝わる。足利学校はのちに「坂東の大学」と呼ばれ、戦国時代には多くの学徒が集まる場所となった。

1440年

結城合戦

持氏の遺児を立てて下総の結城氏朝が兵をあげると、憲実は幕府の求めで政務にもどり、討伐にあたった。乱は翌年しずまったが、まもなく将軍義教が赤松満祐に討たれる嘉吉の変がおこり、世の中はさらに揺れ動いた。

1449年

子の関東管領就任

鎌倉公方が持氏の子成氏のもとで再びおかれ、憲実の子憲忠が関東管領に就いた。しかし憲実は、主君を滅ぼした家の子が管領になることを望まず、子との縁を切ったと伝わる。自らは政治から完全に身を引いた。

1454年

享徳の乱の始まり

子の憲忠が成氏によって討たれ、関東は享徳の乱と呼ばれる長い戦乱に入った。この争いは約30年続き、関東は全国に先がけて戦国の世に入ったといわれる。憲実がおそれていた主従の対立が、最悪の形で現れた。

1466年

長門で死去

晩年の憲実は諸国をめぐり、周防・長門を治める大内氏のもとに身を寄せた。長門の大寧寺で亡くなったとされる。関東の政治では悲劇に巻き込まれたが、足利学校を守り育てた功績は後の世に長く語り継がれている。

この時代に起きたこと

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