日本史人生シミュレーター

陶晴賢(隆房)

大内氏の重臣・主君を倒して実権を握った武将
時代:戦国時代 / 1521年〜1555年(34歳ほど)
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歩んだ道

1521年

周防の名家に生まれる

周防国で、大内氏の重臣である問田氏の家に生まれたと考えられている。母は陶氏の出身とみられ、陶興房の実子が早くに亡くなったため、甥にあたる彼が陶家の養子に迎えられたという。陶氏は周防の守護代を代々務める名門であった。

1535年

主君義隆に仕える

少年時代は美しい若者として知られ、主君の大内義隆にたいへん気に入られて側近く仕えた。元服のとき義隆から一字をもらって隆房と名乗った。翌年までには養父の興房から家督を譲られ、若くして大内家を支える重臣の座についた。

1541年

吉田郡山城を救う

出雲の尼子晴久が安芸の毛利元就の吉田郡山城を大軍で攻めると、隆房は義隆から総大将を任されて救援に向かった。元就と力を合わせて戦い、この年の初めに尼子軍を退けた。若き総大将の名は大いに上がり、元就ともこのころから深く関わることになる。

1543年

月山富田城での大敗

勢いに乗って尼子氏の本拠である出雲の月山富田城を攻めたが、攻略できずに大敗し、義隆の養子の晴持をはじめ多くの将兵を失った。退却のとき、自分の兵糧を護衛の者に与え、自らは干した魚を食べて飢えをしのいだという話が伝わっている。

1545年

文治派との対立

敗戦のあと義隆は戦いに関心を失い、和歌や学問など文化に心を傾けた。その中で、文書や儀礼にすぐれた相良武任が重く用いられ、武を重んじる隆房と激しく対立した。この年、隆房はいったん武任を隠居に追い込み、家中での主導権を取り戻した。

1548年

再び遠ざけられる

義隆の命で備後へ出陣し、毛利元就らとともに神辺城を攻めるなど、武将としての働きを続けた。しかしこの年、相良武任が義隆に呼び戻されて重い役に復帰すると、隆房は再び家中の中心から外された。義隆との心の溝は、しだいに深まっていった。

1550年

謀反を決意する

内藤興盛らと組んで相良武任を討とうとしたが事前に知られ、義隆から問いただされて立場を失った。同じころ豊後の大友氏で家督が代わったのを見て、隆房は義隆を退け、大友義鎮(のちの宗麟)の弟の晴英を大内家の当主に迎える計画を固めたという。

1551年

大寧寺の変

身の危険を感じた武任が周防から逃げ出すと、隆房は兵を挙げて山口を攻めた。義隆は長門の大寧寺へ逃れたが、そこで自ら命を絶った。これが大寧寺の変である。西国で並ぶもののなかった大内氏の当主が家臣に倒されたことは、下剋上の世を象徴する出来事となった。

1552年

晴賢と名を改める

大友晴英を周防に迎えて大内家の新しい当主に立て、自らは家の実権をにぎった。新しい主君を迎えたことを内外に示すため、晴英から一字をもらって晴賢と名を改めた。晴英はのちに大内義長と名乗り、晴賢が政治と軍事を取りしきった。

1554年

毛利元就の離反

晴賢は家中を引き締めようと軍備を強めたが、これに反発する領主も多かった。石見の吉見正頼が反旗をひるがえし、晴賢がその討伐に向かう間に、安芸の毛利元就も大内方を離れて城を次々に奪った。送り込んだ軍も折敷畑の戦いで敗れ、安芸は毛利の手に落ちた。

1555年

厳島の戦いと最期

晴賢は二万とも三万ともいわれる大軍で安芸の厳島に渡り、毛利方の宮尾城を攻めた。しかし嵐の夜に上陸した毛利軍の奇襲を受けて敗れ、退路も断たれて島の中で自ら命を絶った。「何を惜しみ何を恨みん」で始まる辞世の歌が伝わる。

この時代に起きたこと

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