日本史人生シミュレーター

滝川一益

織田信長の重臣・関東方面を任された武将
時代:戦国時代 / 1525年〜1586年(61歳ほど)
この人の一生をたどる(自動再生)

歩んだ道

1525年

甲賀に生まれたと伝わる

亡くなった年から逆算すると、この年の生まれと考えられる。近江国甲賀郡の出身と伝わるが、若いころの経歴ははっきりしない。幼いころから鉄砲の扱いにすぐれていたとする記録があり、その腕を買われて織田信長に召し抱えられたと古くから語られている(諸説あり)。

1556年

信長に仕える

『信長公記』には、信長が催した踊りの会で「滝川左近衆」が役を務めたという記述があり、このころまでには信長に仕えていたと考えられる。信長の乳兄弟である池田恒興とは従兄弟であったともいわれ、早くから織田家の中で信頼を得ていたようである。

1568年

伊勢攻めで頭角を現す

織田家の伊勢攻略で先鋒として活躍し、北伊勢の諸家を従えた。翌年には伊勢の国司北畠氏の一族を味方に引き入れる調略を進め、北畠具教が大河内城を明け渡すと、その受け取りを任された。戦いの後、北伊勢五郡を与えられて本拠地とした。

1574年

長島一向一揆と水軍

北伊勢の長島で一向一揆と向き合い、各地を転戦する遊軍としても働いた。三度目の長島攻めでは九鬼嘉隆らとともに水軍を率い、海の上から鉄砲を撃って織田軍を助けた。この功により長島城と北伊勢の五郡を与えられ、織田家の重臣としての地位を固めた。

1575年

長篠で鉄砲隊を率いる

長篠の戦いに加わり、武田勝頼の軍と戦った。このとき鉄砲隊の指揮をとったと伝わり、若いころから得意とした鉄砲の腕がここで生かされた。同じ年には越前の一向一揆の平定にも加わり、信長の天下統一の戦いを各地で支え続けた。

1578年

鉄甲船と石山本願寺

第二次木津川口の戦いでは、九鬼嘉隆が率いる大きな船とともに一益の船も出陣し、毛利方の水軍を破った。一益は鉄で守りを固めた船の建造にも関わったとされる。翌年には有岡城の守将を味方に引き入れて城の守りを崩し、本願寺の降伏につながる働きをした。

1580年

関東との取次役

佐久間信盛が追放されると、小田原の北条氏など関東の大名との連絡役を一益が担うようになった。伊賀攻めにも加わる一方、茶の湯を好み、京都の妙心寺に子を開祖とする庵を建てるなど、武将としてだけでなく文化にも心を寄せた。

1582年

甲州征伐と上野一国

甲州征伐では織田信忠の軍の軍監として主力を担い、天目山のふもとで武田勝頼を追いつめた。その功で上野一国と信濃の二郡を与えられ、関東の諸将をまとめる役を任された。名高い茶器をほしがったがかなわず、遠い国に置かれて茶の湯の運も尽きたと嘆いた手紙が残る。

1582年

神流川の戦いと帰還

本能寺の変で信長が倒れると、北条氏の大軍が上野に攻め込んだ。一益は神流川の戦いで初戦に勝ったものの翌日に敗れ、上野の諸将に別れを告げて伊勢へ引き上げた。帰る途中に清洲会議が開かれたため出席できず、織田家の中での立場は大きく下がった。

1583年

秀吉と戦って降る

柴田勝家と羽柴秀吉が対立すると、一益は勝家の側について北伊勢で兵を挙げた。秀吉方の大軍を相手に長島城で粘り強く戦ったが、勝家が賤ヶ岳の戦いで敗れて北ノ庄で世を去ると孤立し、ついに降伏した。所領はすべて取り上げられ、京都の妙心寺で髪を落とした。

1584年

秀吉方として蟹江城へ

小牧・長久手の戦いでは、今度は秀吉の側について戦った。伊勢から海を渡って蟹江城を奪い、織田信雄と徳川家康の拠点の間に割って入ったが、家康らの主力に囲まれて半月あまり粘ったのち城を明け渡した。退くとき追撃を受け、一益は船で伊勢へのがれた。

1586年

越前での最期

晩年は丹羽長秀を頼って越前に身を寄せ、秀吉のために関東の大名との外交にもかかわった。この年、越前の大野で亡くなった。信長のもとで鉄砲と水軍、関東の経営に力をふるった名将であったが、信長の死後の大きな流れの中で力を失っていった。

この時代に起きたこと

この人の一生をたどる(自動再生)

関係する人物

織田信長丹羽長秀九鬼嘉隆徳川家康武田勝頼織田信忠織田長益(有楽斎)柴田勝家

同じ時代の人物(戦国・安土桃山)

陶晴賢(隆房)千利休柴田勝家三好長慶蜂須賀正勝酒井忠次明智光秀龍造寺隆信

戦国・安土桃山の人物一覧 ・ 時代別の人物一覧

教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。

人物一覧へ