大坂城を守る役目の同心という下級武士の家に生まれた。給料の少ない家だったが、幼いころから計算や数の学問である算学に強い興味をもっていた。この好奇心が、のちに日本一の天文学者へと至時を導いていくことになる。
父の跡を継いで、大坂の同心となった。役目をつとめながらも、空いた時間には数学の勉強を続けた。わずかな給料の中から本を買い、夜遅くまで計算に取り組んだと伝わる。働きながら学ぶ日々が、ここから長く続いていく。
同じ同心の家の娘、志勉と結婚した。翌年には長男の景保が、その2年後には次男の景佑が生まれた。志勉は家計をやりくりして観測道具の代金を工面し、貧しい夫の研究を支え続けた。その良妻ぶりは後の世にも語りつがれている。
暦の学問を学ぶため、大坂で名高い天文学者の麻田剛立の弟子となった。ここで同じころ入門した間重富と出会い、生涯の友となる。家が火事で焼けた翌日にも、焼け跡で剛立や重富と暦について議論したと伝わるほど熱心だった。
このころ、重富が手に入れた中国の本『暦象考成後編』の研究に取り組んだ。そこには太陽と月が円ではなくだ円の軌道を動くという、ケプラーの説が書かれていた。当時の日本人には難しい理論だったが、至時は仲間とともにこれを読みこなした。
その実力が幕府に認められ、重富とともに暦を改めるため江戸に呼ばれ、天文方に任じられた。下級武士からの異例の出世だった。しかし同じ年、長年支えてくれた妻の志勉が二十九歳で亡くなった。至時はその後、二度と妻をめとらなかった。
江戸に来て数か月後、十九歳年上の伊能忠敬が弟子入りを願って訪れた。至時は忠敬に天文学と暦学を教え、毎日熱心に星を観測する忠敬を「推歩先生」と呼んだ。年下の師と年上の弟子という、めずらしい師弟関係の始まりだった。
京都で観測を重ね、新しい暦の作り方をまとめた『暦法新書』を完成させた。朝廷の暦を担当する土御門家や他の天文方とも意見を調整しなければならず、苦労も多かった。体調をくずしながらの作業だったが、改暦の大仕事をやりとげた。
至時と重富が中心となってつくった新しい暦が「寛政暦」として使われ始めた。西洋の天文学の考え方を取り入れ、それまでの暦より正確になった。この功績により至時の評判はますます高まり、幕府からの信頼も厚くなった。
地球の大きさを知るため、正確な緯度1度の長さを求めることは至時の願いでもあった。至時は「江戸から蝦夷地ほどの距離を測る必要がある」と忠敬に助言し、幕府の許可を取るために力をつくした。これが忠敬の日本全国測量の始まりとなった。
オランダ語に訳されたフランスの天文学者ラランドの天文書を手に入れ、病をおして読みこんだ。それまでの知識をはるかに超える内容に驚き、その要点をまとめた研究を残した。命を削るような勉強ぶりだったといわれる。
持病の結核が悪化し、江戸で亡くなった。まだ働き盛りの年齢だった。長男の景保は父を継いで天文方となり、忠敬の死後に日本地図を完成させた。次男の景佑も天文方として次の改暦を導いた。忠敬は遺言で、師の至時のそばに葬られた。
山東京伝酒井抱一小林一茶谷文晁十返舎一九曲亭馬琴高田屋嘉兵衛佐藤一斎
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。