美濃の岩村藩の家老佐藤信由の次男として、江戸の浜町にあった岩村藩の屋敷で生まれた。佐藤家は代々藩の家老を務める家柄であった。名は坦、通称は捨蔵といい、一斎は号である。武士の家に育ちながら、早くから学問に強い関心を寄せた。
岩村藩に仕え、藩主松平乗薀の三男である乗衡のそば近くに仕えることになった。乗衡は年の近い学問好きの若者で、二人は親しく学問について語り合ったという。この乗衡こそ、のちに幕府の学問をつかさどる林家を継ぎ、林述斎と名のる人物である。
わずか一年ほどで役を解かれ、その後は上方に出て学問を深めた。京都の皆川淇園や大坂の中井竹山といった名高い学者に学び、朱子学を中心に幅広い知識を身につけた。中井竹山の教えを通して、のちに陽明学にも心を寄せるようになったといわれる。
江戸に戻り、幕府の学問をつかさどる林家の林簡順に入門した。まもなく簡順が亡くなり、かつて仕えた乗衡が林家の養子に迎えられて林述斎と名のると、一斎はそのまま述斎の門人となった。若いころからの友人が師となる、珍しい師弟関係であった。
述斎に学問の力を高く評価され、林家の塾の塾長となって、述斎とともに多くの門弟を教えた。その門下生は三千人ともいわれ、山田方谷、佐久間象山、渡辺崋山、横井小楠、中村正直など、幕末から明治に活躍する人々が数多く育った。
心に浮かんだ考えや教えを短い文章で書きとめる『言志録』を書き始めたとされる。これは晩年まで四十年余りにわたって書き継がれ、『言志後録』『言志晩録』『言志耋録』と合わせて『言志四録』と呼ばれる。人の生き方や学び方を説いた言葉が多く収められている。
『言志録』が刊行され、多くの人に読まれるようになった。のちに西郷隆盛は『言志四録』を一生の愛読書とし、その中から百一条を自ら書き抜いたことで知られる。一斎の言葉は、幕末の志士たちの心の支えとなり、今日まで長く読み継がれている。
西洋の学問を学ぶ人々が罰せられた蛮社の獄で、門人の渡辺崋山が罪に問われた。このとき一斎は崋山をはっきりと守る行動をとらなかったため、のちに言うことと行うことが違うと批判されることになった。常に時計を持ち、時間を厳しく守る厳格な人柄であったという。
述斎が亡くなると、幕府の学校である昌平坂学問所の儒官に任じられ、幕府の学問の頂点に立った。朱子学を専門としながら陽明学にも通じていたため、仲間たちから「陽朱陰王」と呼ばれた。表は朱子学、内には陽明学を抱くという意味である。
アメリカとの日米和親条約の交渉で、林家の当主林復斎を補佐した。しかし吉田松陰は手紙の中で、林家や一斎らが軍事や西洋のことを口にするのを嫌うと書き、失望を示している。時代が大きく動く中で、伝統的な学問の立場に立つ一斎への見方は分かれた。
江戸で亡くなった。墓は今の東京都港区六本木の寺にある。学問の世界で長く重きをなし、三千人ともいわれる門人を育て、その言葉は『言志四録』として残った。一斎の教えを受けた人々は、幕末から明治の日本を動かす大きな力となった。
小林一茶十返舎一九曲亭馬琴高田屋嘉兵衛平田篤胤調所広郷間宮林蔵頼山陽
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