京都で、幕府に仕える碁打ちの安井算哲の長男として生まれた。安井家は将軍の前で碁を打つ御城碁に出る家の一つだった。春海は碁の家に生まれながら、のちに星や暦の研究で名を残すことになる。
父が亡くなり、まだ少年のうちに二代目の安井算哲を継いだ。碁の家の当主として修業を積む一方で、算術や天文、暦学にも強い興味を持った。池田昌意や岡野井玄貞から数学や天文を学び、その才能を伸ばしていった。
初めて江戸城での御城碁に出て勝った。また同じころから各地の緯度を測る観測を行い、天文への関心を深めた。のちには神道と儒学を山崎闇斎に、陰陽道を土御門泰福に学び、さまざまな学問を暦の研究に生かしていった。
名人と称された本因坊道策と御城碁で対局し、初手を盤の中央の天元に打つという大胆な手を試みた。しかしこの碁は9目差で負けた。碁の世界でも新しい考えを試そうとした春海の姿勢を示す出来事として伝えられている。
当時使われていた宣明暦は中国の唐代に作られた暦で、800年以上使い続けられて実際の天の動きと2日ほどずれていた。春海は元の授時暦をもとにした新しい暦への改暦を幕府に願い出た。会津藩主保科正之の支持も受けていた。
改暦を進めるため、授時暦による日食の予報を示したが、この予報は外れてしまった。春海は大きな挫折を味わったが、原因を考え直し、中国と日本では経度が違うため、中国の暦をそのまま使えないことに気づいたとされる。
観測を重ねて日本の位置に合わせて作り直した暦が認められ、翌年から貞享暦として使われることになった。日本人が作った初めての暦である。この功績で、春海は幕府に新しく置かれた天文方の最初の役人に任じられた。
天文方として江戸に移り住んだ。それまで暦は京の朝廷のもとで作られていたが、天文方が置かれたことで、暦づくりの中心が幕府の側に移っていった。春海は江戸で観測を続け、暦の精度を高める仕事に取り組んだ。
本所に屋敷と観測所を与えられ、本格的な天体観測を行った。翌年には天球儀や地球儀を作り、星の位置や地球の姿を目に見える形で示した。春海が作った天球儀は現在も残り、重要文化財に指定されている。
自らの観測をもとに、中国の星座に日本で見える星を加えた星図『天文成象』をまとめた。春海は中国の伝統的な星座に、新たに数十の星座を書き加えたとされる。日本の空を日本の目で観測しようとした成果だった。
このころから姓を渋川と改めた。渋川は先祖の姓とされ、碁の安井家とは別に、天文方の家として新しい家を立てる意味があったとみられる。天文方の職はその後、渋川家に代々受け継がれていった。
この年、跡を継ぐはずだった子の昔尹が急に亡くなり、春海もその後を追うように江戸で亡くなった。貞享暦は約70年使われ、天文方は伊能忠敬の師高橋至時らに受け継がれて、日本の天文学の発展を支えていった。
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。