日本史人生シミュレーター

高島秋帆

日本初の洋式砲術演習を行った砲術家
時代:江戸時代末(幕末) / 1798年〜1866年(68歳ほど)
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歩んだ道

1798年

長崎の町年寄の家に生まれる

長崎の町年寄を務める高島茂起の三男として生まれた。先祖は近江国高島郡の武士で、近江源氏の佐々木氏の流れをくむという。長崎は当時、日本でただ一つ海外と通じる町であり、この町に育ったことが、秋帆の目を早くから世界へ向けさせることになった。

1814年

父の跡を継ぐ

父の跡を継いで町年寄となり、のちに長崎の貿易を取りしきる長崎会所の調役頭取となった。大坂の漢学塾である泊園書院でも学んだ。長崎で西洋の砲術と日本の砲術の大きな差を知って驚き、このままでは国を守れないという強い危機感を抱くようになった。

1834年

高島流砲術を完成

出島のオランダ人を通じてオランダ語と西洋の砲術を学び、自分のお金で銃や大砲をそろえて研究を重ねた。こうして独自の高島流砲術を完成させた。役人であり貿易にも関わる豊かな家の財力と、長崎という土地の利を生かした努力の成果であった。

1835年

鍋島茂義に奥義を伝える

前の年に入門した佐賀藩武雄領の領主・鍋島茂義に、砲術のすべてを伝えたことを示す免許皆伝を与えた。あわせて自分で作った最初の大砲である青銅製の臼砲を贈った。茂義はのちに佐賀藩が西洋式の軍備を進める先がけとなり、秋帆の教えは各地へ広がっていった。

1840年

アヘン戦争の衝撃

清がアヘン戦争でイギリスに敗れつつあることを知り、強い危機感から、幕府に大砲などの近代化を訴える意見書を出した。これは天保上書とよばれる。大国の清が西洋の軍事力に屈したことは、秋帆にとって日本も同じ運命をたどりかねないという警告であった。

1841年

徳丸ヶ原の演習

武蔵国の徳丸ヶ原で、日本で初めての西洋式の砲術と銃隊の公開演習を行った。兵たちは筒袖の上着に細い袴、黒塗りの円すい形の笠という見慣れない姿で、見に来た役人を驚かせた。この成功で秋帆は砲術の専門家として幕府に重く用いられ、老中阿部正弘からもたたえられた。

1841年

江川英龍らに伝える

幕府の命令で、伊豆韮山の代官である江川英龍や旗本の下曽根信敦に西洋の砲術を教えた。二人はさらに多くの門人を育て、高島流砲術は全国に広まった。江川はのちに反射炉や台場の建設に力を尽くしており、秋帆の教えは幕末の海防を支える力となった。

1842年

捕らえられて幽閉

長崎会所の長年のずさんな運営の責任を問われ、長崎奉行に捕らえられて牢に入れられ、高島家は断絶となった。秋帆の財力と名声をねたんだ鳥居耀蔵が密貿易をしていると訴えたためというのが通説だが、別の説もある。武蔵国の岡部藩に預けられたが、諸藩はひそかに教えを求めた。

1853年

ペリー来航で許される

ペリーの来航で世の中の状況が変わり、秋帆は許されて牢を出た。閉じこめられている間に、国を閉ざして海を守るだけの政策は誤りだと気づき、国を開いて外国と交易すべきだと考えるようになっていた。そこで開国と通商を説く意見書を幕府に出した。これは嘉永上書とよばれる。

1856年

講武所で教える

幕府が武術や西洋式の砲術を学ばせるために設けた講武所で、砲術の指導にあたった。外国の打ち払いを求める声が強い中でも、幕府の砲術の訓練に力を尽くした。かつて罪人とされた秋帆が、ふたたび国の守りを担う人々の師となったのである。

1864年

教練書をまとめる

西洋式の歩兵の動き方を示した『歩操新式』などの教練書を編集した。オランダ人から学ぶ条件として、軍事の言葉は必ずオランダ語を使うよう求められていたため、秋帆は号令をすべてオランダ語で行っていたという。のちに門人らが号令を日本語に置きかえた。

1866年

江戸で世を去る

明治維新を見ることなく亡くなった。門人たちが日本語に置きかえた号令は、形を少しずつ変えながら、のちの日本の軍隊や学校の号令として広まったといわれる。演習の地である徳丸ヶ原は、のちに秋帆の名にちなんで高島平とよばれ、今もその名を伝えている。

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