江戸で、大垣藩に仕える医者江沢養樹の長男として生まれた。八人きょうだいの一番上で、江沢家は代々大垣藩の藩医を務める家であった。医学の家に育ったことが、のちに西洋の学問へ深い関心をもつきっかけとなり、日本の近代科学の基礎を築く道へとつながっていく。
津山藩の医者で蘭学者の宇田川玄真の養子となり、玄真のもとでオランダ語と西洋の学問を学んだ。宇田川家は蘭学の名門として知られていた。榕菴は養父の玄真を深く慕い、のちには玄真の体をいたわるために温泉の効き目を調べたという逸話も残っている。
このころ、蘭学者の辻蘭室とともに、ジャワ島の植物を色鮮やかに描いた図譜を写して訳した。日本に現存する最も古い近代的な植物図譜である可能性も指摘されている。植物への興味はますます深まり、のちに西洋の植物学を日本に紹介する仕事へとつながった。
西洋の植物学を紹介する『菩多尼訶経』を出した。「菩多尼訶」はラテン語で植物学を意味する言葉に漢字をあてたもので、お経の形で書かれた珍しい本である。同じころ玄真とともに西洋の薬についての本も出した。この年、薩摩藩医の娘を妻に迎えている。
幕府の天文方に置かれた、オランダ語の書物を訳す役所の翻訳員となり、フランス人ショメールの百科事典を訳す『厚生新編』の作業に加わったとされる。この年、江戸を訪れたドイツ人医師シーボルトとも会い、親しく交わったことで知られる。
養父の玄真とともに、西洋の薬についての本『新訂増補和蘭薬鏡』の刊行を始めた。オランダの書物から薬の性質や使い方を調べ、日本の医者たちが使えるようにまとめたものである。親子で力を合わせた仕事は、西洋医学を日本に広める助けとなった。
深く慕っていた養父の宇田川玄真が亡くなった。玄真のもとで学んだオランダ語と医学の知識は、榕菴の仕事の土台となっていた。榕菴には子がなかったため、のちに植物学者飯沼慾斎の子の興斎を養子に迎え、宇田川家の学問を次の世代へとつないだ。
『理学入門 植学啓原』を出版し、西洋の植物学を本格的に日本へ紹介した。植物のからだのしくみや分類を説明し、「細胞」や「属」といった言葉を新しく考え出した。それまで薬草の学問が中心だった日本の植物研究に、新しい見方をもたらした本である。
日本で初めて近代化学を紹介する『舎密開宗』の刊行を始めた。「舎密」はオランダ語で化学を意味する言葉の音をあてたものである。ただ訳すだけでなく、ほかの多くの書物の知識や、自分で行った実験の結果も書き加えた。酸素・水素・温度・分析など、今も使われる言葉を数多く生み出した。
江戸で亡くなった。『舎密開宗』は死後の翌年に完結した。コーヒーを紹介する文章も書き、「珈琲」という書き方を初めて使ったのは榕菴だともいわれるが、これには異論もある。日本に概念のなかった学問を言葉から整えた榕菴の仕事は、近代科学の基礎となった。
シーボルト歌川広重歌川国芳高島秋帆徳川斉昭江川英龍川路聖謨高野長英
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。