江戸の小石川にある水戸藩の屋敷で、7代藩主・徳川治紀の三男として生まれた。水戸藩は徳川光圀のころから学問を重んじる藩で、斉昭もきびしい教育を受けて育った。
兄の斉脩が跡継ぎのないまま亡くなり、29歳で9代水戸藩主となった。藩の中には反対する者もいたが、改革を望む藤田東湖らが斉昭を強く推した。
このころから、藤田東湖や会沢正志斎ら有能な家臣を取り立て、藩の財政の立て直し、田畑の調べ直し(検地)、軍備の強化など、大がかりな藩政改革を始めた。
外国船の来航に備え、大規模な軍事演習(追鳥狩)を行った。斉昭は早くから外国への備えの大切さを説き、のちには大砲をつくるために寺の鐘を集めることまで行った。
藩校・弘道館を開き、武士の子どもたちに学問と武芸を教えた。翌年には、民とともに楽しむ場として偕楽園を造った。偕楽園は今も梅の名所として知られる。
寺の取りこわしや鉄砲の演習などが幕府にとがめられ、藩主を退いて謹慎を命じられた。しかし支持する人々の働きかけで、のちに藩の政治に再びかかわることを許された。
七男の七郎麿(のちの徳川慶喜)が一橋家の養子となった。聡明な慶喜は将来の将軍候補として注目され、斉昭は息子に大きな期待をかけた。
ペリーが来航すると、老中・阿部正弘に招かれ、幕府の海防(外国船への備え)に意見を述べる役についた。斉昭は外国を打ち払うべきだと強く主張し、尊王攘夷を唱える志士たちのあこがれの的となった。
安政の大地震で、片腕とたのんだ藤田東湖が江戸の藩邸で亡くなった。東湖は母をかばって建物の下じきになったと伝わる。斉昭にとって大きな痛手であった。
大老・井伊直弼が天皇の許しを得ないまま日米修好通商条約を結ぶと、決められた日以外に江戸城へ押しかけて抗議した。将軍の跡継ぎ問題でも慶喜を推して直弼と対立し、謹慎を命じられた。
安政の大獄によって、さらに重い永蟄居(ずっと家にこもる罰)を命じられ、水戸に移された。
桜田門外の変で直弼が水戸の浪士らに討たれたこの年、斉昭も水戸で急な病のため亡くなった。のちに「烈公」と呼ばれ、その思想は幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えた。
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