日本史人生シミュレーター

川路聖謨

幕末の勘定奉行・日露交渉の全権
時代:江戸時代末(幕末) / 1801年〜1868年(67歳ほど)
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歩んだ道

1801年

誕生

豊後の日田で、代官所につとめる下級役人内藤吉兵衛の子として生まれた。父はのちに江戸へ出て、幕府の御家人の身分を得た。家は貧しかったが、父は子の学問に熱心だったと伝わる。

1813年

川路家の養子となる

幕府の小役人川路家の養子となり、川路の名を名のった。少年のころから学問と武芸にはげみ、身分の低い家から自分の力で道を開こうとした。のちに幕府の役所で働き始める。

1818年

勘定所に入る

幕府の財政をあつかう勘定所の下役として働き始めた。まじめな仕事ぶりと頭の切れで少しずつ認められ、出世の階段をのぼっていった。勘定所は家柄より実力が重んじられる役所の一つだった。

1835年

仙石騒動の裁き

但馬の出石藩でおきたお家騒動(仙石騒動)の取り調べを担当し、公平な裁きで名を上げた。これをきっかけに勘定吟味役に取り立てられ、幕府の中で有能な役人として知られるようになった。

1839年

尚歯会の人々との交わり

渡辺崋山や江川英龍ら、西洋の事情を学ぶ人々と交わっていた。この年、崋山らが幕府の対外政策を批判したとして罰せられる蛮社の獄がおこり、川路にも疑いがかかったが、罪には問われなかった。

1840年

佐渡奉行となる

佐渡金山のある佐渡島を治める佐渡奉行に任じられた。鉱山の経営や島の人々の暮らしに気を配り、まじめに務めたとされる。地方の役所での経験は、のちの幕府の仕事に生かされた。

1846年

奈良奉行となる

奈良奉行として古都奈良を治め、荒れていた天皇陵の調査や修理にも心を配った。のちに大坂町奉行もつとめた。各地で民の声に耳を傾けた川路は、公平で情け深い役人として評判が高かった。

1852年

勘定奉行となる

幕府の財政と全国の幕府領を取りしまる勘定奉行に任じられた。翌年ペリーが来航すると、老中阿部正弘のもとで海防のことにも関わった。身分の低い家から出て、幕府の重い役に就いた人物だった。

1853年

プチャーチンとの交渉

ロシアの使節プチャーチンが長崎に来航すると、川路は全権の一人として交渉にあたった。国境や開港をめぐる難しい話し合いだったが、誠実で機知に富んだ態度はプチャーチンからも高く評価されたと伝わる。

1855年

日露和親条約の締結

伊豆の下田でプチャーチンとの交渉を続け、日露和親条約を結んだ。千島列島では択捉島と得撫島の間を国境とし、樺太は国境を決めずに両国の人が住む地とした。地震と津波で船を失ったロシア側への支援にも関わった。

1858年

井伊直弼により退けられる

将軍の跡継ぎ問題で一橋慶喜を推す側に立ったため、大老井伊直弼によって勘定奉行をやめさせられ、閑職に移された。翌年にはさらに隠居と謹慎を命じられた。有能な役人の多くがこの時期に政治から遠ざけられた。

1868年

幕府の終わりとともに

のちに外国奉行として一時復帰したが、病のため体が不自由になった。新政府軍が江戸に迫り、江戸城が明け渡される直前、川路は幕府に殉じるようにして自ら命を絶った。幕府の終わりを見届けるような最期だった。

この時代に起きたこと

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関係する人物

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同じ時代の人物(江戸)

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