江戸の日本橋で、染物屋の柳屋吉右衛門の子として生まれたとされる(生まれた場所には別の言い伝えもある)。幼いころから絵が好きで、染物の柄や絵本を見ながら絵を描いていたという。
14歳で、人気浮世絵師の初代歌川豊国に入門した。その才能は早くから豊国に認められていたと伝わる。のちには勝川春亭らにも学び、さまざまな画風を取り入れた。
このころから役者絵や本のさし絵を描き始めたが、兄弟子の国貞らの人気に押され、なかなか売れなかった。苦しい時期が十年あまり続いた。
このころ、中国の物語『水滸伝』の豪傑を一人ずつ描いた『通俗水滸伝豪傑百八人之一個』を出し、大評判となった。力強い体や入れ墨を迫力たっぷりに描き、「武者絵の国芳」と呼ばれるようになった。
このころ、西洋の銅版画を研究して遠近法や陰影を取り入れ、風景画『東都名所』を描いた。空や水の表し方に新しい工夫を見せ、風景画でも才能を発揮した。
天保の改革で役者絵や遊女の絵が禁じられ、出版の取りしまりが厳しくなった。国芳は動物や妖怪を人のように描いたり、魚に人の顔をつけたりするユーモラスな戯画を工夫し、禁令をかいくぐりながら作品を出し続けた。
源頼光の土蜘蛛退治を描いた『源頼光公館土蜘作妖怪図』を出した。絵の中の妖怪や人物が幕府の政治を皮肉っていると評判になり、大いに売れたと伝わる。
このころ、巨大な骸骨が画面いっぱいにせまる三枚続きの『相馬の古内裏』を描いた。大胆な構図と、西洋の解剖図を参考にしたとされる正確な骨の形が、見る人をおどろかせた。
このころ、たくさんの人の体を組み合わせて一人の顔をつくる『みかけハこハゐがとんだいゝ人だ』などの寄せ絵を描いた。遊び心あふれるだまし絵は、今も多くの人に親しまれている。
大の猫好きで、いつも何匹もの猫を飼い、ふところに猫を入れたまま絵を描いたと伝わる。面倒見のよい親分肌で、月岡芳年ら多くの弟子が集まった。幼いころの河鍋暁斎も一時入門していた。
江戸で亡くなった。奇想天外な発想と大胆な構図はいったん忘れられかけたが、近年あらためて高く評価され、国芳の作品は展覧会で大人気となっている。弟子たちは明治時代の浮世絵や日本画を支えた。
水野忠邦ペリーシーボルト歌川広重高島秋帆宇田川榕菴徳川斉昭江川英龍
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。