日本史人生シミュレーター

徳川家慶

江戸幕府の12代将軍
時代:江戸時代 / 1793年〜1853年(60歳ほど)

何をした人?
江戸時代後期の第12代将軍です。天保の改革期に将軍職にあり、アヘン戦争後の情勢や異国船来航など、対外危機が強まるなかで幕政を統括しました。在職のまま江戸で亡くなりました。

プロフィール

名前徳川家慶
生没年1793年(寛政5年) – 1853年(嘉永6年)
時代江戸時代
出身地江戸
主な業績
  • 将軍職を継ぐ(1837年)
  • 天保の改革期の幕政を統括
  • 異国船・対外問題への対応
  • 在職のまま亡くなる(1853年)
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歩んだ道

1793年

家斉の次男として生まれる

第11代将軍徳川家斉の次男として江戸城で生まれた。母は押田氏の出。長兄が早く亡くなったため、やがて将軍継嗣と定められた。幼いころから将軍家の教育を受け、儀礼と学問を学んだ。

1817年

西の丸に入り継嗣となる

正式に世子として江戸城西の丸に入り、将軍後継の地位を固めた。父家斉の治世は長く、大御所として実権を握る時期も続いた。家慶は表向きの将軍職を待つ長い年月を、儀礼と学問に励みながら過ごした。

1837年

12代将軍に就任する

父家斉が隠居し、家慶が12代将軍となった。しかし家斉は大御所として政治に口を出し続け、家慶の主導権は限られていた。大御所政治の影の下で将軍職を始め、独自の政策は後年まで持ち越された。

1841年

天保の改革を進める

家斉の死後、老中水野忠邦らとともに天保の改革に取り組んだ。贅沢を抑え、農村の復興や都市の統制を目指した。しかし商人や大名の反発が強く、改革は十分には浸透しなかった。

1843年

改革の行き詰まり

人返し令などで都市から農民を村へ戻そうとした政策は不評を買い、水野忠邦は一旦失脚した。家慶は改革の続行と緩和の間で揺れ、幕府財政の難しさを改めて知ることになった。

1844年

水野忠邦の再登用

改革を再開するため水野忠邦を再び老中に起用したが、まもなく罷免された。幕閣の人事は安定せず、家慶の周囲でも意見が分かれた。内政の立て直しは思うように進まなかった。

1852年

ペリー来航を前にした備え

アメリカ使節の来航が近いとの情報が入る中、海防への危機感が高まった。家慶は沿岸防備の強化を命じるなど対応を急いだが、開国か鎖国かをめぐる議論は幕閣の中でもまとまらなかった。

1853年

ペリー来航

アメリカのペリー艦隊が浦賀に来航し、開国を求めた。幕府は対応に追われ、家慶は重い責任を負った。病身をおして政務をみたが、対応策が定まる前に健康が急速に悪化し、政局は混迷を深めた。

1853年

開国問題を幕閣に諮る

ペリーの開国要求を受け、老中らに対応策を諮った。意見は分かれ、即答はできなかった。病をおして会議に臨む将軍の姿は、幕末の危機を象徴するものとなった。この光景は、後世の記録にも繰り返し描かれることになった。

1853年

江戸城で亡くなる

ペリー来航の混乱の中、江戸城で病のため亡くなった。享年六十。跡は子の家定が継いだ。開国問題の渦中での死は、幕末の扉が開く象徴的な出来事となり、幕府の前途に重い影を落とした。

この時代に起きたこと

よくある質問

Q. 徳川家慶は何をした人ですか?

A. 江戸時代後期の第12代将軍です。天保の改革期に将軍職にあり、アヘン戦争後の情勢や異国船来航など、対外危機が強まるなかで幕政を統括しました。在職のまま江戸で亡くなりました。

Q. 徳川家慶はいつの時代の人ですか?

A. 江戸時代の人物です。1793年(寛政5年)に生まれ、1853年(嘉永6年)に亡くなりました。

Q. 徳川家慶の出身地はどこですか?

A. 徳川家慶は江戸の生まれです。

Q. 徳川家慶の時代に何が起きましたか?

A. 天保の改革や異国船の来航など、内政と外交の緊張が同時に高まった時期です。ペリー来航の直前に亡くなりました。

参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata

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