何をした人?
江戸時代後期の第12代将軍です。天保の改革期に将軍職にあり、アヘン戦争後の情勢や異国船来航など、対外危機が強まるなかで幕政を統括しました。在職のまま江戸で亡くなりました。
| 名前 | 徳川家慶 |
|---|---|
| 生没年 | 1793年(寛政5年) – 1853年(嘉永6年) |
| 時代 | 江戸時代 |
| 出身地 | 江戸 |
| 主な業績 |
|
第11代将軍徳川家斉の次男として江戸城で生まれた。母は押田氏の出。長兄が早く亡くなったため、やがて将軍継嗣と定められた。幼いころから将軍家の教育を受け、儀礼と学問を学んだ。
正式に世子として江戸城西の丸に入り、将軍後継の地位を固めた。父家斉の治世は長く、大御所として実権を握る時期も続いた。家慶は表向きの将軍職を待つ長い年月を、儀礼と学問に励みながら過ごした。
父家斉が隠居し、家慶が12代将軍となった。しかし家斉は大御所として政治に口を出し続け、家慶の主導権は限られていた。大御所政治の影の下で将軍職を始め、独自の政策は後年まで持ち越された。
家斉の死後、老中水野忠邦らとともに天保の改革に取り組んだ。贅沢を抑え、農村の復興や都市の統制を目指した。しかし商人や大名の反発が強く、改革は十分には浸透しなかった。
人返し令などで都市から農民を村へ戻そうとした政策は不評を買い、水野忠邦は一旦失脚した。家慶は改革の続行と緩和の間で揺れ、幕府財政の難しさを改めて知ることになった。
改革を再開するため水野忠邦を再び老中に起用したが、まもなく罷免された。幕閣の人事は安定せず、家慶の周囲でも意見が分かれた。内政の立て直しは思うように進まなかった。
アメリカ使節の来航が近いとの情報が入る中、海防への危機感が高まった。家慶は沿岸防備の強化を命じるなど対応を急いだが、開国か鎖国かをめぐる議論は幕閣の中でもまとまらなかった。
アメリカのペリー艦隊が浦賀に来航し、開国を求めた。幕府は対応に追われ、家慶は重い責任を負った。病身をおして政務をみたが、対応策が定まる前に健康が急速に悪化し、政局は混迷を深めた。
ペリーの開国要求を受け、老中らに対応策を諮った。意見は分かれ、即答はできなかった。病をおして会議に臨む将軍の姿は、幕末の危機を象徴するものとなった。この光景は、後世の記録にも繰り返し描かれることになった。
ペリー来航の混乱の中、江戸城で病のため亡くなった。享年六十。跡は子の家定が継いだ。開国問題の渦中での死は、幕末の扉が開く象徴的な出来事となり、幕府の前途に重い影を落とした。
A. 江戸時代後期の第12代将軍です。天保の改革期に将軍職にあり、アヘン戦争後の情勢や異国船来航など、対外危機が強まるなかで幕政を統括しました。在職のまま江戸で亡くなりました。
A. 江戸時代の人物です。1793年(寛政5年)に生まれ、1853年(嘉永6年)に亡くなりました。
A. 徳川家慶は江戸の生まれです。
A. 天保の改革や異国船の来航など、内政と外交の緊張が同時に高まった時期です。ペリー来航の直前に亡くなりました。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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