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徳川家斉

江戸幕府の11代将軍
時代:江戸時代 / 1773年〜1841年(68歳ほど)

何をした人?
江戸幕府の11代将軍です。一橋家に生まれ、若くして将軍となり、約50年という歴代でもっとも長い期間将軍をつとめました。初めは松平定信の寛政の改革が行われ、のちには派手な政治と化政文化が栄えました。将軍を退いたあとも大御所として力を持ち続けました。

プロフィール

名前徳川家斉
生没年1773年(安永2年) – 1841年(天保12年)
時代江戸時代
出身地江戸(一橋邸)
主な業績
  • 11代将軍(1787年)
  • 寛政の改革の時代
  • 将軍のまま太政大臣(1827年)
  • 大御所として政治を主導(1837年〜)
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歩んだ道

1773年

一橋家に生まれる

8代将軍徳川吉宗のひ孫として、将軍家の親類である御三卿の一橋家の当主・一橋治済の長男に生まれた。幼い名は豊千代。将軍の家を継ぐ立場ではなかったが、将軍家に跡継ぎがいなくなったときに備える一橋家に生まれたことが、のちの運命を大きく変えることになる。

1781年

将軍の跡継ぎに選ばれる

10代将軍徳川家治の跡継ぎだった家基が急に亡くなり、家治にはほかに男の子がいなかった。老中の田沼意次らが跡継ぎ選びを任され、豊千代が家治の養子に選ばれた。翌年に元服して家斉と名乗った。この選定には、田沼と父の治済の結びつきが働いたとする見方もある。

1787年

11代将軍となる

前の年に家治が亡くなり、家斉は若くして11代将軍となった。家治のもとで力を振るった田沼意次はすでに退けられていた。御三家の推薦で、白河藩主として名高い松平定信が老中首座となり、若い将軍に代わって政治を担った。定信の政治はのちに寛政の改革と呼ばれる。

1789年

島津家の姫と結婚する

薩摩藩主・島津重豪の娘で、公家の近衛家の養女となった寔子(茂姫)と結婚した。この縁で島津家は将軍家と深く結びついた。家斉は多くの側室を持ち、50人を超える子どもをもうけたと伝わる。その子どもたちは各地の大名家に養子や妻として送られた。

1792年

ラクスマンの来航

ロシアの使節ラクスマンが、漂流民の大黒屋光太夫らを連れて蝦夷地の根室に来航し、通商を求めた。幕府は長崎への入港許可証を渡して帰らせたが、通商には応じなかった。外国船が日本の近海に現れるようになり、北方の守りや海の防備が幕府の大きな課題となっていった。

1793年

松平定信を退ける

寛政の改革は幕府の財政を立て直そうとしたが、倹約や取りしまりが厳しすぎて不満も高まった。朝廷との間の尊号一件などで家斉と定信の対立も深まり、家斉は父の治済と協力して定信を老中から退けた。その後も定信が登用した老中たちが、しばらく政治を引き継いだ。

1808年

フェートン号事件

イギリスの軍艦フェートン号がオランダ船を追って長崎港に入りこみ、オランダ商館員を捕らえて食料や水を要求する事件が起きた。長崎奉行の松平康英は責任を取って自ら命を絶った。この数年前にはロシアのレザノフも長崎に来航しており、外国への警戒がいっそう強まった。

1818年

水野忠成と派手な政治

定信の流れをくむ老中たちが亡くなったり退いたりすると、家斉は側近の水野忠成を老中首座に任じた。家斉自身もぜいたくな暮らしを好み、幕府は貨幣の質を落として発行を増やし、財政の不足を補った。賄賂も横行したとされ、幕府の規律はゆるんでいった。

1820年

化政文化の花開く

家斉の時代には、江戸の町人を中心に文化が栄えた。文化・文政という年号から化政文化と呼ばれる。十返舎一九や曲亭馬琴の読み物、葛飾北斎や歌川広重の浮世絵、歌舞伎などが人々に楽しまれた。政治がゆるんだ一方で、町の暮らしはにぎわいを見せた。

1825年

異国船打払令

イギリスやアメリカの捕鯨船などが日本の近海に増え、船員が上陸する事件も起きた。幕府は、清とオランダ以外の外国船が近づいたらためらわずに打ち払うよう命じた。これを異国船打払令という。海の守りの費用がかさみ、幕府の財政はさらに苦しくなった。

1827年

将軍のまま太政大臣に

朝廷に働きかけ、将軍の職にあるまま、朝廷の最高の官職である太政大臣に任じられた。現役の将軍が太政大臣を兼ねたのは家斉だけである。その見返りとして、幕府は朝廷に多くの金品を贈ったと伝わる。長く将軍を務めた家斉の権勢を示す出来事だった。

1837年

大塩の乱と大御所時代

天保の大飢饉で人々が苦しむなか、大坂で元役人の大塩平八郎が貧しい人々を救おうと兵を挙げ、幕府に衝撃を与えた。同じ年、家斉は50年にわたった将軍の職を子の家慶に譲った。しかし大御所として江戸城西の丸にとどまり、政治の実権を握り続けた。

1841年

最期

江戸城で亡くなった。最期はだれにもみとられずに息を引き取ったとも伝わる。その死後、老中の水野忠邦が家斉の側近たちを退け、天保の改革を始めた。約50年に及んだ家斉の時代は、町人文化が栄えた一方で、幕府の力が弱まり始めた時代とも評価されている。

この時代に起きたこと

よくある質問

Q. 徳川家斉は何をした人ですか?

A. 江戸幕府の11代将軍です。一橋家に生まれ、若くして将軍となり、約50年という歴代でもっとも長い期間将軍をつとめました。初めは松平定信の寛政の改革が行われ、のちには派手な政治と化政文化が栄えました。将軍を退いたあとも大御所として力を持ち続けました。

Q. 徳川家斉はいつの時代の人ですか?

A. 江戸時代の人物です。1773年(安永2年)に生まれ、1841年(天保12年)に亡くなりました。

Q. 徳川家斉の出身地はどこですか?

A. 徳川家斉は江戸(一橋邸)の生まれです。

Q. 家斉の時代にはどんな文化が栄えましたか?

A. 文化・文政の年号から化政文化と呼ばれる、江戸の町人を中心とした文化が栄えました。十返舎一九や曲亭馬琴の読み物、葛飾北斎や歌川広重の浮世絵、歌舞伎などが人々に楽しまれました。

参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata

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