江戸の日本橋で、布を染める紺屋を営む家に生まれた。幼い名は勝次郎、通称は源蔵。父とともに家業の染め物を手伝いながら育ったが、生まれつき芝居が大好きだった。にぎやかな江戸の芝居小屋に通ううちに、自分で芝居の台本を書く狂言作者になりたいと願うようになった。
狂言作者を志し、当時の人気作者である初代桜田治助の弟子となった。その後も金井三笑や並木五瓶など、何人もの作者のもとで学んだ。桜田兵蔵、沢兵蔵、勝俵蔵と名を改めながら、先輩作者を手伝う下積みの日々は30年近くに及んだ。
歌舞伎役者の三代目鶴屋南北の娘であるお吉と結婚したと伝わる。二人は恋で結ばれた夫婦とされ、翌年には長男が生まれた。この長男はのちに五代目鶴屋南北となる。役者の家とのこの縁が、のちに作者として鶴屋南北の名を継ぐきっかけになった。
長い下積みのすえ、芝居の台本づくりをまとめる中心の作者である立作者に初めてなった。このときすでに40代の後半だった。三代目坂東彦三郎のために作品を書き、ようやく自分の考えで芝居全体を組み立てられる立場を手に入れた。遅咲きの作者の本格的な活躍がここから始まる。
初代尾上松助のために書いた『天竺徳兵衛韓噺』が大当たりとなった。舞台で役者が一瞬で姿を変える早替わりや、水を使った仕掛けが評判を呼んだ。南北は仲間と相談して「早替わりはキリシタンの妖術だ」といううわさを江戸に広め、奉行所が調べに来る騒ぎになったが、かえって客が押し寄せたと伝わる。
尾上松助と組んで、幽霊が現れるこわい芝居である怪談物を完成させた。大道具の職人と協力して、幽霊が突然現れたり消えたりする巧みな舞台の仕掛けを工夫した。かつら職人とも協力して新しいかつらを生み出すなど、見た目の工夫でも歌舞伎の表現を広げた。
妻お吉の父が名乗っていた鶴屋南北の名を継ぎ、四代目鶴屋南北となった。もとは役者の名前だったものを、作者が受け継いだのである。この名は南北の活躍によって作者の名として広く知られるようになり、とくに四代目は他の南北と区別して「大南北」とも呼ばれる。
『於染久松色読販』(お染の七役)では、五代目岩井半四郎が一人で七つの役を演じ分けて評判となった。南北は、江戸の町に暮らす庶民や悪人の姿をなまなましく描く生世話物を、七代目市川團十郎や三代目尾上菊五郎らの役者とともに確立していった。
『桜姫東文章』を発表した。高貴な姫が身を落とし、町の暮らしの中で生き抜くという筋で、身分の高い世界と下町の世界を大胆に混ぜ合わせた。まったく性質の違う世界をないまぜにする意外な展開と、毒のある笑いは、南北の作品の大きな特徴とされている。
代表作『東海道四谷怪談』が江戸の中村座で初めて上演された。夫の伊右衛門に裏切られたお岩が幽霊となって恨みを晴らす物語で、『仮名手本忠臣蔵』と組み合わせて二日がかりで上演された。お岩の髪がぬけ落ちる場面や戸板返しの仕掛けが評判を呼んだ。
江戸で亡くなった。生前に自分の葬式で配るための冊子を書き、自分をからかう笑いに満ちた作品に仕上げていたと伝わる。最後まで芝居の作者らしい遊び心を忘れなかった。墓は本所の春慶寺にある。その作風は河竹黙阿弥らに受け継がれ、作品は今も上演され続けている。
上杉鷹山大黒屋光太夫喜多川歌麿最上徳内大槻玄沢良寛松平定信葛飾北斎
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。