出羽国楯岡村(今の山形県村山市)の貧しい農家に、高宮家の長男として生まれた。幼名は元吉。生まれた年は1755年とする説もある。家業を手伝ってたばこの行商で奥州各地を歩きながら、独学で学問を続けた。
前の年に父が亡くなると、長男でありながら家業を弟たちに任せ、学問を志して江戸に出た。幕府の医官山田図南の家で下働きをしながら、医術や数学を学んだ。貧しい農民の子が学問で身を立てようとする、思い切った決断だった。
天文学や測量、海外の事情に詳しい本多利明の音羽塾に入った。利明は、海外との交易や北方の開発の大切さを説く経世家で、徳内は測量の技術とともにその考えを学んだ。長崎へ算術の修行に出たこともあった。
老中田沼意次のもとで幕府が蝦夷地の調査を計画した。病気の師利明の代わりに推薦され、調査隊に人夫という低い身分で加わった。青島俊蔵らと釧路から根室まで調べ、アイヌの首長イコトイの案内で国後島にも渡った。
松前で冬を越し、再び国後島へ渡ってイコトイらとともに択捉島と得撫島まで進んだ。択捉島ではロシア人と出会い、アイヌの仲立ちで交流してロシアの事情を学んだ。しかしこの年に田沼が失脚し、蝦夷地の開発は中止となった。
前の年にもう一度蝦夷地へ渡ろうとしたが、松前藩に正体を知られて追い出された。陸奥国野辺地で知り合った船頭の新七を頼って住みつき、酒造りや廻船を営む商家島谷屋の娘ふでと結婚して婿となった。
蝦夷地でアイヌが立ち上がったクナシリ・メナシの戦いが起こり、徳内は江戸の青島に知らせた。調査に向かう青島に同行したが、江戸に戻ると、二人の行動が役目を越えていると疑われて牢に入れられた。青島は牢の中で病死した。
徳内も獄中で病気になったが、師の利明らの働きかけもあって無罪となり釈放された。さらにその経験と能力を買われて幕府の普請役に取り立てられた。農民出身の者が幕府の役人となるのは、当時としては異例の出世だった。
幕府の命令で樺太の調査に向かい、地理を調べるとともに、松前藩の密貿易やアイヌへの厳しい扱いにも気づいた。これに先立つ蝦夷地行きでは、アイヌに作物の育て方を教えたり、交易のはかりをそろえるよう指示したりもした。蝦夷地に詳しい役人として、たびたび北方に送られた。
幕府の大規模な蝦夷地調査で、近藤重蔵の部下として択捉島に渡り、日本の領土であることを示す「大日本恵登呂府」の標柱を立てた。日高の山を切り開く道の工事も担当したが、調査隊の責任者と意見がぶつかり、役目を外された。
ロシアとの緊張が高まるなか、樺太詰を命じられて宗谷から渡った。南の亜庭湾から西海岸までを回り、大陸との間を行き来する山丹の舟も目にした。蝦夷地に渡った回数は合わせて9回に及び、当時一番の蝦夷通として知られた。
江戸に来たドイツ人医師シーボルトを訪ね、何度も会って北方の事情や学問について語り合った。間宮林蔵が調べた樺太の地図を見せ、アイヌ語の研究にも協力した。シーボルトが最も信頼した日本人の一人といわれる。
晩年は江戸の浅草に住み、この年に亡くなった。著書『蝦夷草紙』は北方の地理やアイヌの暮らし、ロシアの事情を伝え、シーボルトを通じて世界にも知られた。国学者の平田篤胤とも生涯親しく付き合った。
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