8代将軍吉宗の孫として、田安家に生まれた。幼いころから学問にすぐれていた。
陸奥の白河藩主・松平定邦の養子となった。これで将軍になる道は閉ざされ、田沼意次がかかわったともいわれる。
白河藩主となった。天明の飢饉のとき、ほかの地方から米を買い集め、領内で餓死者を出さなかったといわれる。
田沼意次が失脚したあと、老中のいちばん上の地位につき、寛政の改革を始めた。
旗本や御家人の借金を帳消しにする棄捐令を出した。ききんに備えて大名に米をたくわえさせた(囲米)。
幕府の学校で朱子学以外の学問を教えることを禁じた。江戸の石川島には、仕事のない人に技術を身につけさせる人足寄場をつくった。
江戸の町の費用を節約させ、その7割を積み立てて、ききんなどのときに貧しい人を救うしくみをつくった。
ロシアの使節ラクスマンが根室に来て通商を求めたが、長崎に来るよう伝えた。海岸の防備を説いた林子平の本も、人々をまどわすとして取りしまった。
きびしすぎる改革に不満が高まり、朝廷との問題もあって老中を辞めた。「白河の 清きに魚も 住みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」という狂歌が流行した。
白河にもどり藩の政治に力を注いだ。身分を問わずだれでも楽しめる庭園「南湖」をつくった。
隠居して楽翁と名のった。随筆『花月草紙』や自伝『宇下人言』などを書いた。
江戸で亡くなった。
喜多川歌麿最上徳内大槻玄沢良寛葛飾北斎華岡青洲山東京伝小林一茶
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。