常陸の上平柳村(茨城県つくばみらい市)の農家に生まれた(生年は諸説あり)。
このころ、村の近くの工事に来た幕府の役人・村上島之允に才能を見いだされ、その下で働くようになった。
村上に従って蝦夷地(北海道)に渡り、測量や調査の仕事を始めた。
蝦夷地で伊能忠敬と出会い、測量の技術を学んだ。
択捉島でロシア船の襲撃にあった。北の守りの大切さを強く感じた。
幕府の命令で松田伝十郎とともに樺太(サハリン)を調査した。
再び樺太にわたって北へ進み、大陸の黒竜江(アムール川)の下流まで行った。樺太が大陸とつながっていない島であることを確かめた。この海峡は「間宮海峡」とよばれる。
調査の記録を『東韃地方紀行』などにまとめ、幕府に差し出した。
このころ、蝦夷地の測量を続け、その成果は伊能忠敬の地図づくりにも生かされた。
シーボルトが日本の地図を国外に持ち出そうとした事件が発覚した。林蔵の届け出がきっかけの一つともいわれる。その後、幕府の隠密として各地を調べたといわれる。
江戸で亡くなった。
高田屋嘉兵衛佐藤一斎平田篤胤調所広郷頼山陽広瀬淡窓会沢正志斎二宮尊徳
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。