鹿児島城下で、下級武士川崎主右衛門の次男として生まれた。幼名は良八。川崎家は城下に住む武士の中でも最も低い小姓組の家で、暮らしは楽ではなかった。のちに藩の財政を一手に担う家老になるとは、だれも思わなかった。
茶道坊主として藩に仕える調所清悦の養子となり、名を友治と改めた。調所家も身分は低く、領地も屋敷も持たない家だったが、代々藩の役所に勤める仕事があった。翌年に養父が亡くなり、若くして家を背負うことになった。
養父の跡を継いで表坊主となり、調所清悦を名のった。相撲が強いことで城下に知られ、夜中まで書きものをする勉強家だったと伝わる。大工のことは大工に、商売のことは商人にと、専門の人から熱心に話を聞いたともいわれる。
江戸詰めを命じられ、前藩主島津重豪の身の回りに仕える茶道役となった。重豪は将軍徳川家斉の義父で、多くの大名が訪ねてきた。重豪から笑悦の名をもらい、茶の湯や生け花を学びながら、広い世界を見聞した。
茶道の仕事から小納戸に移り、髪を伸ばして名を笑左衛門と改めた。茶道役からこの職に移るのは珍しいことだった。さらに小納戸頭取へと進み、藩政の重要な役につく足がかりをつかんだ。このころ再婚している。
側近として目立つ調所への風当たりが強くなり、重豪は彼を使番へ移した。不本意だった調所が重豪から渡された図面を開くと、そこには重豪の字で「心を屈せずして勉むべし」と書かれていたと伝わる。
鹿児島の町奉行に移った。武士の多い鹿児島では町奉行は大事な職とはいえなかったが、この時期に知り合った町人たちが、のちの財政改革で調所の知恵袋として活躍することになる。人との出会いが後の仕事を支えた。
薩摩藩の借金は約500万両に達し、藩士の給料も払えなくなっていた。重豪から改革の責任者を命じられた調所は、成功の見込みがないと一度は断ったが、重豪に厳しく迫られて引き受けたと伝わる。以後、趣味をすべて断って仕事に打ちこんだ。
改革が少しずつ成果をあげるにつれて加増が続き、この年には家老格となって、外に向けては家老を名のるよう命じられた。毎年鹿児島から長崎、大坂、京都を回って江戸に入り、各地で自ら指揮をとったため、家族と過ごせるのは年に2、3か月だった。
大坂などの商人に、500万両の借金を利子なしで250年かけて返すことを認めさせたとされる。実際には踏み倒しに近い強引な方法で、商人には密貿易の品で便宜を図る代わりの手当ても行った。返済は明治初めまで続けられた。
奄美の島々でとれる黒砂糖の専売制や、琉球を通じた清との密貿易、特産品の開発などで、藩の金蔵に200万両の蓄えができるまでに財政を立て直した。一方、砂糖を安く買い上げられた奄美の人々は厳しい暮らしを強いられた。
跡継ぎをめぐるお由羅騒動で、調所は藩主斉興と久光の側についた。斉興の子の斉彬は老中阿部正弘と結んで薩摩藩の密貿易の情報を伝え、江戸に出た調所は阿部から密貿易について問いただされた。
嘉永元年12月(西暦では1849年1月)、江戸の藩邸で急死した。責任が藩主に及ぶのを防ぐため、自ら命を絶ったともいわれる。死後、家族は禄を取り上げられた。長く悪く言われたが、その財政再建が幕末の薩摩の力を支えたとして見直されている。
曲亭馬琴高田屋嘉兵衛佐藤一斎平田篤胤間宮林蔵頼山陽広瀬淡窓会沢正志斎
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。