何をした人?
明治から昭和初めの医師・政治家です。陸奥国水沢に生まれ、医師から内務省の衛生行政に進みました。台湾総督府の民政長官、南満州鉄道の初代総裁、東京市長などを務め、関東大震災の後は帝都復興院総裁として大規模な復興計画を立てました。構想の大きさから「大風呂敷」とも呼ばれました。
| 名前 | 後藤新平 |
|---|---|
| 生没年 | 1857年(安政4年) – 1929年(昭和4年) |
| 時代 | 江戸末〜昭和時代 |
| 出身地 | 陸奥国胆沢郡水沢(現在の岩手県奥州市) |
| 主な業績 |
|
陸奥国の水沢(今の岩手県奥州市)で、仙台藩に仕える家臣の家に生まれた。親類には蘭学者の高野長英がいる。明治維新で仙台藩が新政府に敗れたため、家は苦しい立場に置かれ、少年時代は決して恵まれたものではなかった。
このころ、水沢に赴任してきた役人の安場保和に才能を認められ、書生として引き取られた。同じく書生となったのが、のちに首相となる斎藤実である。安場の世話で学問の道が開け、のちには安場の娘と結婚することになる。
福島県の須賀川医学校に入り、西洋医学を学んだ。本人は政治家を志していたともいわれるが、周囲のすすめで医師の道を選んだ。勉強熱心で成績もよく、卒業後は愛知県の病院に勤め、医師として力を伸ばしていった。
愛知県医学校の校長と病院長を兼ねるという異例の抜てきを受けた。まだ二十代前半の若さだったが、病院の改革や医学教育に意欲的に取り組んだ。人々の健康を守るには、国や地域の仕組みを整えることが大切だと考えるようになった。
岐阜で自由民権運動の指導者板垣退助が襲われてけがをした際、駆けつけて手当てをした。板垣はその才能に感心し、医者にしておくのは惜しいと語ったと伝わる。同じ年、内務省衛生局に入り、国の衛生行政に携わるようになった。
自費でドイツに留学し、衛生学や国の制度を学んで医学博士となった。帰国後の1892年には衛生局長に就いた。翌年、旧相馬藩主家をめぐる騒動に巻き込まれ、半年ほど拘束されたが、のちに無罪となった。この挫折は大きな試練だった。
日清戦争から戻る兵士たちが伝染病を国内に持ち込まないよう、陸軍の児玉源太郎のもとで大規模な検疫事業を指揮した。わずかな期間で20万人以上の検疫をやりとげ、その手腕が高く評価された。これが児玉との深い結びつきの始まりとなった。
台湾総督となった児玉源太郎に呼ばれ、台湾総督府の民政長官となった。土地や人口の調査を行い、鉄道や港、上下水道を整え、病気の予防にも力を入れた。土地の習慣をよく調べてから政策を立てるという考え方で知られる。
日露戦争後に設立された南満州鉄道の初代総裁となり、鉄道とともに病院や学校、町づくりを進めた。1908年には逓信大臣と鉄道院総裁を兼ね、全国の鉄道の整備にも取り組んだ。大きな計画を好むことから「大風呂敷」とあだ名された。
寺内正毅内閣で内務大臣となり、1918年には外務大臣としてシベリア出兵に関わった。翌年には拓殖大学の学長にも就き、若い人材の育成にも力を注いだ。医療や衛生から始まった仕事は、国の政治全体へと広がっていった。
東京市長に就き、道路や公園、上下水道などを整える大きな計画を立てた。市の仕組みを研究する機関もつくった。1922年には少年団日本連盟の初代総長となり、ボーイスカウトの活動を支えた。子どもたちからも慕われたという。
関東大震災で東京が大きな被害を受けると、内務大臣と帝都復興院総裁となり、復興計画を立てた。予算は大きく削られたが、昭和通りや隅田公園などの広い道路や公園が生まれ、今の東京の骨組みとなった。
東京放送局の総裁として、日本で最初のラジオ放送の開始にあいさつを述べ、放送が人々の暮らしや文化に役立つと語った。1928年には自らソ連を訪れて指導者スターリンと会談するなど、晩年まで日本と各国の関係づくりに奔走した。
講演のため列車で西へ向かう途中に脳の病で倒れ、4月に京都で亡くなった。「自治」を大切にし、人の世話になったら人の世話をせよという言葉を残したと伝わる。医師から政治家となり、都市づくりに大きな足跡を残した。
A. 明治から昭和初めの医師・政治家です。陸奥国水沢に生まれ、医師から内務省の衛生行政に進みました。台湾総督府の民政長官、南満州鉄道の初代総裁、東京市長などを務め、関東大震災の後は帝都復興院総裁として大規模な復興計画を立てました。構想の大きさから「大風呂敷」とも呼ばれました。
A. 江戸末〜昭和時代の人物です。1857年(安政4年)に生まれ、1929年(昭和4年)に亡くなりました。
A. 後藤新平は陸奥国胆沢郡水沢(現在の岩手県奥州市)の生まれです。
A. 関東大震災後の復興計画をもとに、昭和通りや靖国通りなどの広い道路、隅田公園などの公園、隅田川の橋などが整備されました。当初の計画は予算が大きく縮小されましたが、今の東京の街の骨格の一部となっています。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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