江戸で、幕府の家臣・岡村良通の次男として生まれた。父は事件を起こして職を失い浪人となったため、子平たち兄弟は医者だった叔父の林従吾に引き取られて育ち、林の姓を名乗った。苦しい境遇の中で、子平は学問に打ちこんだ。
このころ、姉が仙台藩主・伊達宗村の側室となり、その縁で兄の嘉善が仙台藩士に取り立てられた。子平も兄とともに仙台へ移り住んだが、自分の禄(給料)はなく、兄の家の世話になる立場だった。そのぶん自由に旅をし、学ぶことができた。
このころから、仙台藩に対して、藩の財政を立て直す方法や学校を整えて人材を育てる方法などをまとめた意見書を何度も差し出した。しかし身分の低い子平の意見はほとんど取り上げられなかった。それでも子平は、世の中を良くするための学問を追い続けた。
初めて長崎へ旅し、オランダ通詞(通訳)たちから海外の様子を学んだ。地図や書物を通じて、世界には多くの国があり、船で海を渡って行き来していることを知った。このあと子平は合わせて三度長崎を訪れ、海外の知識を集めていった。
再び長崎を訪れた。このころ、オランダ商館長からロシアが東へ勢力を広げ、日本の北に近づいているという話を聞いたと伝わる。海に囲まれた日本は、どこからでも外国の船が来られるのに守りが弱いと、子平は強い危機感をもった。
三度目の長崎訪問を果たしたほか、江戸では工藤平助・桂川甫周・大槻玄沢ら、蘭学や海外の事情にくわしい学者たちと交わった。とくに工藤平助はロシアの動きを研究しており、子平は彼らとの議論から多くを学んだ。
朝鮮・琉球・蝦夷地(北海道)と、その周りの島々について、地図をつけて説明した『三国通覧図説』を書いた。日本のまわりの土地と海の様子を人々に知らせ、北の守りの大切さを訴える内容で、のちに海外でも翻訳されて知られるようになった。
海に囲まれた日本の守り方を説いた『海国兵談』を書き上げた。「江戸の日本橋から中国やオランダまで、境のない水の道でつながっている」と書き、大砲をそなえた船を造り、全国の海岸の守りを固めるべきだと説いた。
『海国兵談』は出版してくれる店が見つからず、子平は自分で版木を彫らせるなど、お金を工面して数年がかりで全16巻を自費で出版した。少しでも多くの人に、外国の船に備える必要を知ってほしいという強い思いからだった。
老中・松平定信の幕府は、政治について勝手に論じ、人々を惑わすものだとして子平を処罰し、本と版木を取り上げ、仙台の兄の家で謹慎させた。皮肉にもこの年、ロシアの使節ラクスマンが根室に来航し、子平の心配は現実のものとなった。
謹慎の身となった子平は「親も無し、妻無し子無し、版木無し、金も無けれど死にたくも無し」という歌をよみ、自らを「六無斎」と名乗ったと伝わる。何もかも失っても、ユーモアを忘れない子平の人柄を伝える話である。
仙台の兄の家で、謹慎のまま亡くなった。のちに高山彦九郎・蒲生君平とともに「寛政の三奇人」と呼ばれた。子平の死後、外国船が日本に次々と現れるようになり、海の守りを説いた先見の明は、幕末になって高く評価されるようになった。
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