大坂の曾根崎に生まれた。母は大和出身の女性と伝わるが、父ははっきりしない(諸説あり)。幼いうちに、紙と油をあつかう大坂の商家・嶋屋の上田茂助の養子となった。
幼いころ、重い疱瘡(天然痘)にかかり、命があぶなくなった。養父が加島稲荷に祈ったところ命が助かったと伝わる。病気のあと手の指が不自由になったが、秋成はこの神社を生涯うやまった。
このころ、若い秋成は遊びにふける日々を送りながら俳諧を楽しみ、「漁焉」の号で句を詠んだ。町人の文化にふれる中で、言葉や物語への関心を深めていった。
京都の農家出身の女性・たまと結婚した。翌年には養父が亡くなり、家業の嶋屋を継いだ。しかし、商売はあまり得意ではなかったという。
浮世草子『諸道聴耳世間猿』を出版し、翌年には『世間妾形気』を出した。世の中の人々の性格や暮らしを、おもしろおかしく描いた作品である。このころ、賀茂真淵の弟子・加藤宇万伎に入門し、国学を学び始めた。
中国の怪談や日本の古典をもとにした9つの怪しい物語『雨月物語』を書き上げ、序文を記した。美しい文章で、人の心の執念や悲しみを描いた作品である(出版は8年後)。
火事で家と財産をすべて失った。これをきっかけに商売をやめ、医術を学んで医者になる道を選んだ。読本の先がけとなった医者で作家の都賀庭鐘に学んだとされる。
大坂で医者として開業し、同じ年に『雨月物語』が出版された。この作品は読本と呼ばれる新しい読み物の代表作となり、のちの曲亭馬琴らにも大きな影響を与えた。
このころ、本居宣長と、古代の音の読み方や太陽の神(日の神)の伝説の解釈をめぐって激しい論争をした。古典をそのまま信じる宣長に対し、秋成は世界の中の日本を冷静に見るべきだと主張した。この論争は宣長の手で『呵刈葭』にまとめられた。
医者の仕事をやめ、大坂の郊外に移り住んで、国学や和歌の研究に打ちこんだ。煎茶を好み、煎茶についての本も残している。
京都へ移り住んだ。1797年には妻をなくし、自分も目を悪くするなど、さびしく苦しい晩年を送ったが、書くことはやめなかった。
晩年の思いをこめた短編集『春雨物語』や、自分の考えを自由に書いた随筆『胆大小心録』を書いた。歴史や人の生き方を見つめる、深い味わいのある作品である。
京都で亡くなった。『雨月物語』は江戸時代の怪異小説の最高傑作とされ、今も演劇や映画、マンガなどに取り上げられて読みつがれている。
平賀源内本居宣長杉田玄白円山応挙林子平伊能忠敬塙保己一司馬江漢
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。