何をした人?
安土桃山時代から江戸時代初めの大名で、徳川家康・秀忠の側近です。家康の参謀だった本多正信の長男として三河に生まれ、大御所家康のそばで政治を取り仕切りました。宇都宮15万5千石の大名となりましたが、1622年に改易され、出羽の横手で生涯を終えました。
| 名前 | 本多正純 |
|---|---|
| 生没年 | 1565年(永禄8年) – 1637年(寛永14年) |
| 時代 | 安土桃山〜江戸時代 |
| 出身地 | 三河国 |
| 主な業績 |
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徳川家康の家臣・本多正信の長男として三河で生まれた。父の正信は三河一向一揆で家康にそむいて国を離れており、幼い正純は家康の重臣・大久保忠世に守られて育ったと伝わる。父はのちに許され、家康の参謀として欠かせない人物になった。
関ヶ原の戦いに家康のそばで加わった。戦いのあと、とらえられた石田三成の身柄を預かる役目をつとめた。父とともに家康の信頼が厚く、この戦いをきっかけに、若手の側近として重要な仕事を任されるようになった。
朝廷から従五位下・上野介に任じられた。以後「上野介」とよばれ、家康の命令を大名たちに伝えたり、領地の取り決めに関わったりと、政治の実務を担うようになった。頭の回転が速く、仕事のできる人物として知られた。
家康が将軍職を子の秀忠にゆずって大御所となると、正純はその側近として政治の中心を担った。江戸の秀忠には父の正信がつき、親子で大御所と将軍の二つの政治を支えた。家康はのちに駿府に移り、正純も駿府で重く用いられた。
下野国小山(今の栃木県小山市)に3万3千石の領地を与えられ、大名となった。家康の命令を各地の大名に伝え、外国との交渉にも関わるなど、駿府の政治の要として活躍した。父と並ぶ家康の知恵袋として、多くの大名から一目置かれた。
正純の家臣・岡本大八が、キリシタン大名の有馬晴信から領地回復の口ききを名目に大金を受け取っていたことが明らかになった。岡本大八事件である。大八も晴信も罰せられ、この事件をきっかけに幕府はキリスト教の禁止へと踏み出した。
大坂冬の陣のあと、豊臣方との和議の条件として大坂城の堀を埋める工事が行われた。外堀だけでなく内堀まで埋めてしまう策に、正純が関わったと伝わる。守りを失った大坂城は、翌年の夏の陣で落ち、豊臣氏はほろんだ。
大御所家康が亡くなり、同じ年に父の正信も世を去った。正純は江戸に移り、将軍秀忠のもとで年寄(のちの老中)として重く用いられ、領地も5万3千石に増えた。しかし秀忠の古くからの側近たちとの間には、しだいにみぞが生まれていった。
下野国宇都宮15万5千石に移された。正純は大きすぎるとして一度は辞退したと伝わる。父の正信は、子に多くの領地を望まないよう言い残していたとも語られる。急な出世は、周りのねたみを集めることにもなった。
出羽の山形城を受け取る役目で出かけていたさなか、罪を問われた。宇都宮城に将軍を害する仕掛けの天井を作ったという宇都宮城釣天井事件の話が広まったが、後世の作り話とされる。正純は代わりの小さな領地を断り、本多家は取りつぶされた。
出羽国横手(今の秋田県横手市)に移され、大名の佐竹義宣に預けられて暮らした。わずかな家臣とともに、狭い屋敷で過ごしたと伝わる。この年、ともに暮らしていた子の正勝が亡くなり、正純はさらに深い孤独の中に置かれた。
許されることのないまま、横手で亡くなった。家康の天下取りを支えた知恵者でありながら、最後は政争に敗れて表舞台から消えた。その急な転落は、江戸幕府の初めのころの厳しい権力争いを物語るものとして語り継がれている。
A. 安土桃山時代から江戸時代初めの大名で、徳川家康・秀忠の側近です。家康の参謀だった本多正信の長男として三河に生まれ、大御所家康のそばで政治を取り仕切りました。宇都宮15万5千石の大名となりましたが、1622年に改易され、出羽の横手で生涯を終えました。
A. 安土桃山〜江戸時代の人物です。1565年(永禄8年)に生まれ、1637年(寛永14年)に亡くなりました。
A. 本多正純は三河国の生まれです。
A. 将軍秀忠を宇都宮城の釣天井で討とうとしたという話は、のちに広まった物語で、事実とは考えられていません。実際には1622年、正純は幕府から命令にそむいたなどの理由で領地を取り上げられ、出羽の横手に移されました。改易の本当の理由には諸説あります。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
この人の一生をたどる(自動再生)本阿弥光悦大久保忠教(彦左衛門)柳生宗矩沢庵宗彭徳川秀忠春日局小堀遠州林羅山
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