日本史人生シミュレーター

本多正信

家康の知恵袋と呼ばれた側近
時代:戦国〜江戸時代 / 1538年〜1616年(78歳ほど)
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歩んだ道

1538年

誕生

三河国で本多俊正の次男として生まれた。本多家は松平氏に代々仕える家で、正信も若いころから松平元康(のちの徳川家康)に仕えた。家康より五つ年上で、同じ三河の武士として主君の苦しい時代を間近で見て育った。

1560年

桶狭間の戦い

今川義元が尾張に攻め込んだとき、正信は今川方として丸根砦を攻める家康に従った。この戦いで膝に傷を負い、以後は足を引きずるようになったと伝わる。義元が討たれたことで家康は今川氏から離れ、三河で自立していった。

1563年

三河一向一揆で主君に背く

三河で一向宗の門徒が家康に反抗して一揆を起こすと、熱心な門徒だった正信は弟の正重とともに一揆側について家康と戦った。信仰と主君への忠義の間で、正信は信仰を選んだのである。翌年、一揆は家康によって鎮められた。

1564年

三河を去り流浪する

一揆が鎮められた後、正信は三河を離れ、京を経て加賀に移ったとされる。加賀では一向一揆の側で織田信長と戦ったとも伝わる。また大和の松永久秀に仕えたという話もあり、久秀が正信の器量を高く評価したと伝わるが、確かではない。

1582年

家康のもとに戻る

大久保忠世のとりなしで家康のもとに戻ることを許された。帰参の時期には諸説あるが、遅くともこのころまでには家康の信頼を取り戻していた。本能寺の変の後、家康が甲斐・信濃を手に入れると、正信は奉行としてその統治を担った。

1586年

佐渡守となる

家康が豊臣秀吉に従うと、秀吉の推薦で家康の重臣たちに官位が与えられ、正信も従五位下佐渡守に任じられた。かつて主君に弓を引いた正信が、家康の重臣の一人として公に認められたことを示している。

1590年

玉縄の大名となる

小田原攻めの後、家康が関東に移ると、正信は相模国玉縄で1万石の領地を与えられて大名となった。家康が留守の間には江戸の町づくりの工事を監督するなど、新しい本拠地の整備にも関わった。

1600年

関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦いでは家康の子秀忠の軍に加わった。秀忠が信濃の上田城の攻撃にこだわったとき、正信は攻撃をやめるよう進言したが聞き入れられなかったと伝わる。ただし実際には途中で江戸に戻って関東の守りに当たっていたとする研究もある。

1602年

本願寺の分立

本願寺では教如と准如の兄弟が対立していた。正信はこれを利用して本願寺を二つに分けることを家康に勧めたとされ、この年、家康は教如に京の土地を与えて東本願寺が生まれた。かつて身を投じた本願寺の力を弱める策でもあった。

1603年

幕府政治の中心に

家康が征夷大将軍となって江戸幕府を開くと、正信は側近として幕府の政治を実際に動かす立場に立った。家康は正信を「友」と呼んだと伝わるほど信頼し、二人は密室で長く語り合ったという。武功より知略で仕えた家臣だった。

1607年

秀忠の年寄となる

家康が将軍職を秀忠に譲って駿府に移ると、正信は江戸の秀忠のもとで政治に加わり、この年からは秀忠付きの年寄(のちの老中)となった。駿府の家康のそばには子の正純が仕え、父子で二つの政治の中心をつないだ。

1616年

家康の後を追うように

この年の春に家康が亡くなると、正信は家督を正純に譲って政務から退き、およそ2か月後に亡くなった。家康とともに歩んだ生涯の終わりだった。正信は大きな領地を望まず、子にも多くを受けないよう戒めたと伝わる。

この時代に起きたこと

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