何をした人?
豊臣政権の五奉行の一人で、近江の出身です。少年のころ豊臣秀吉に仕え、検地や兵糧の手配など政治の実務で力を発揮し、佐和山城主となりました。秀吉の死後、徳川家康と対立して西軍をまとめましたが、1600年の関ヶ原の戦いに敗れ、京都で処刑されました。
| 名前 | 石田三成 |
|---|---|
| 生没年 | 1560年(永禄3年) – 1600年(慶長5年) |
| 時代 | 安土桃山時代 |
| 出身地 | 近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市) |
| 別名 | 佐吉(幼名)、治部少輔 |
| 主な業績 |
|
近江(滋賀県)の石田村の土豪・石田正継の子として生まれた。幼いころから寺で学んだと伝わる。
このころ秀吉に仕えた。鷹狩りの帰りに寺に立ち寄った秀吉に、一杯目はぬるい茶をたっぷり、二杯目は少し熱く、三杯目は熱い茶を少しだけ出して気配りを認められた、という「三献茶」の話が伝わる(伝説)。
賤ヶ岳の戦いで、敵の動きを探り、先がけとして手柄を立てた。その後は戦場よりも、物資の補給や政治の仕事で力を発揮した。
秀吉が関白になると、治部少輔に任じられた。堺奉行をつとめ、九州攻めのあとは戦で荒れた博多の町の復興にも力を尽くした。
小田原攻めの際、武蔵の忍城を水攻めにしたが、城はなかなか落ちなかった。全国で行われた太閤検地でも、奉行として中心になって働いた。
朝鮮に渡り、奉行として軍の指揮や明との和平交渉にあたった。現地で戦う武将たちとの間に意見の対立が生まれ、のちの争いの種となった。
近江の佐和山城主となった。重臣の島左近を自分の禄の半分を出して家来にむかえたといわれ、「三成に過ぎたるもの、島の左近と佐和山の城」とうたわれた。
秀吉の遺言で、豊臣家の政治を担う五奉行の一人となった。秀吉の死後、勢いを強める徳川家康と対立した。
前田利家が亡くなると、加藤清正ら七人の武将に命をねらわれた。家康の仲裁で助かったが、奉行をやめて佐和山城に引きこもった。
親友の大谷吉継らとともに、家康を倒すため兵を挙げ、西軍を組織した。関ヶ原で戦ったが、小早川秀秋らの裏切りで敗れた。
逃れた先で捕らえられ、京都の六条河原で処刑された。40歳だった。処刑の前、のどがかわいたと言うと干し柿をすすめられ、「体に毒だ」と断ったという話が伝わる。最後まで大望を捨てない心を示したとされる。
A. 豊臣政権の五奉行の一人で、近江の出身です。少年のころ豊臣秀吉に仕え、検地や兵糧の手配など政治の実務で力を発揮し、佐和山城主となりました。秀吉の死後、徳川家康と対立して西軍をまとめましたが、1600年の関ヶ原の戦いに敗れ、京都で処刑されました。
A. 安土桃山時代の人物です。1560年(永禄3年)に生まれ、1600年(慶長5年)に亡くなりました。
A. 石田三成は近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市)の生まれです。
A. 1600年、美濃の関ヶ原(現在の岐阜県関ケ原町)で、徳川家康の東軍と石田三成を中心とする西軍が戦った合戦です。小早川秀秋らの寝返りもあり、1日で東軍が勝ちました。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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