京都で、将軍家に仕える三淵晴員の子として生まれた。幼いころに細川家の養子になったとされる(養父には諸説あり)。のちに武将としても文化人としても名を残す、めずらしい人物となった。
このころ、13代将軍・足利義輝に仕えた。武芸に励む一方で、和歌や古典、茶の湯、料理の作法まで幅広く学び、将軍のそば近くで京都の教養を身につけていった。
将軍義輝が三好氏の一派らに襲われて命を落とした(永禄の変)。藤孝は、奈良の興福寺に閉じこめられていた義輝の弟・覚慶(のちの足利義昭)を助け出し、将軍として立てるために各地の大名を頼って回った。
織田信長の力を借り、義昭とともに京都へ入った。義昭は15代将軍となり、藤孝は幕府と信長の間をつなぐ役目を果たした。
義昭と信長が対立すると、藤孝は信長に味方した。義昭が京都から追われて室町幕府がほろびると、山城(京都府)の長岡を領地として与えられ、名字を長岡と改めた。
公家の三条西実枝から、『古今和歌集』の解釈の秘伝である古今伝授を受けた。武将でありながら当代一流の歌学者となり、当時この秘伝を受け継ぐただ一人の人物となった。
子の忠興が、明智光秀の娘・玉(のちの細川ガラシャ)と結婚した。光秀とは、ともに義昭に仕えていたころからの古い仲間であった。
光秀とともに丹後(京都府北部)を平定し、丹後の国を与えられて宮津に城を築いた。武将としても領国を治める大名となった。
光秀が信長を討つと、光秀から味方になるよう強く求められたが応じなかった。髪をそって「幽斎」と名のり、家督を忠興に譲って、信長の死をいたんだ。
その後は豊臣秀吉に仕え、和歌・連歌・茶の湯・有職故実に通じた文化人として重んじられた。秀吉の九州攻めにも従い、旅のようすを紀行『九州道の記』に書いた。
関ヶ原の戦いの前、わずか500人ほどで丹後の田辺城にこもり、1万5000の西軍を引き受けた。幽斎が死ねば古今伝授が絶えることを心配した後陽成天皇の命令で講和が結ばれ、城を明け渡した。
京都で亡くなった。子の忠興の家系はのちに熊本藩主となり、細川家は明治時代まで続いた。武と文の両方をきわめた人として、今も語りつがれている。
朝倉義景島津義久大村純忠織田信長島津義弘丹羽長秀足利義輝豊臣秀吉
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。