薩摩(鹿児島県)の島津貴久の次男として生まれた。兄は義久、弟に歳久・家久がおり、兄弟で力を合わせて九州で勢力を広げた。
大隅の岩剣城の戦いで初めて戦に出た。
日向の伊東氏の大軍を、はるかに少ない兵で木崎原で破った。島津氏が日向へ勢力をのばすきっかけとなった。
日向に攻めこんだ大友宗麟の大軍を、兄の義久とともに耳川で破った。こののち島津氏は九州の大部分を従えるほどになった。
豊臣秀吉の大軍が九州に攻めこみ、兄の義久とともに降伏した。島津氏は薩摩・大隅などを残された。
文禄の役で朝鮮に渡った。船や兵の準備がととのわず、出陣が遅れて苦労したと伝わる。
慶長の役で、泗川の城に攻め寄せた明・朝鮮の大軍を破り、恐れられた(敵の数は諸説あり)。秀吉の死後、撤退する味方を助けながら日本に帰った。
関ヶ原の戦いでは西軍に加わった。西軍が敗れると、少ない兵で敵の大軍の正面を突き抜けて退却し、多くの家臣を失いながらも薩摩に帰りついた。「島津の退き口」として語り継がれている。
兄の義久らが徳川家康と交渉を重ね、島津氏は領地を減らされずにすんだ。義弘は家督を子の忠恒(家久)にゆずって隠居した。
大隅の加治木で亡くなった。80代の長寿だった。家臣たちから深くしたわれ、亡くなったときには後を追う者もいたと伝わる。
島津義久大村純忠織田信長細川幽斎(藤孝)丹羽長秀足利義輝豊臣秀吉足利義昭
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。