日本史人生シミュレーター

明智光秀

武将
時代:戦国時代 / 1528年〜1582年(54歳ほど)

何をした人?
戦国時代の武将で、織田信長に仕えて近江の坂本城、のちに丹波の亀山城などを任されるまで出世しました。丹波を平定するなど活躍しましたが、1582年に本能寺の変で主君の信長を討ちました。直後の山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、逃れる途中で亡くなりました。前半生や生年には諸説あります。

プロフィール

名前明智光秀
生没年1528年(享禄元年説など諸説あり) – 1582年(天正10年)
時代戦国時代
出身地美濃国(現在の岐阜県)と伝わる(諸説あり)
別名惟任日向守
主な業績
  • 坂本城を築き近江を任される(1571年)
  • 丹波を平定する(1579年)
  • 本能寺の変(1582年)
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歩んだ道

1528年

誕生

美濃(岐阜県)の土岐氏の一族、明智氏の出身と伝わる(生年・生まれは諸説あり)。若いころのことは、はっきりとは分かっていない。

1556年

美濃を離れる

斎藤道三が子の義龍に討たれた戦いのあと、明智氏の城も落ち、美濃を離れたと伝わる。その後は越前の朝倉氏のもとで暮らしたという。妻の煕子が髪を売って夫を支えた話も伝わる(伝説)。

1568年

信長と義昭を結ぶ

足利義昭に仕え、義昭と織田信長の仲立ちをしたとされる。信長の上洛後は信長にも仕え、京都の政治をまかされた。教養が深く、和歌や連歌、茶の湯にも通じていた。

1571年

坂本城主

比叡山焼き討ちで働き、近江の坂本に城を与えられた。織田家の家臣として初めて城持ちの大名となり、琵琶湖のほとりに美しい城を築いた。

1575年

丹波攻め

惟任日向守の名をもらい、丹波(京都府・兵庫県)の攻略を命じられた。山の多い丹波で、何年も粘り強く戦い続けた。

1578年

娘の結婚

信長のすすめで、娘の玉(のちの細川ガラシャ)が細川忠興と結婚した。

1579年

丹波平定

丹波を平定し、亀山城や福知山城を築いて城下町を整えた。川の流れを変える工事を行うなど、領民のための政治も行い、福知山では今も慕われている。

1581年

馬揃え

京都で信長が行った大規模な馬揃え(軍事パレード)の運営をまかされた。家臣団を治めるための軍法も定めた。

1582年

本能寺の変

中国地方の秀吉を助けに行くよう命じられたが、兵を京都に向け、本能寺の信長を襲った。「敵は本能寺にあり」と言ったと伝わる。理由は恨み説・野望説などさまざまで、今も分かっていない。

1582年

山崎の戦いと最期

味方につくはずの細川氏や筒井氏は動かず、急いで戻ってきた秀吉と山崎で戦って敗れた。坂本城へ逃れる途中、小栗栖で農民に襲われて命を落としたと伝わる。わずかな期間の天下だったため「三日天下」と呼ばれる。

この時代に起きたこと

よくある質問

Q. 明智光秀は何をした人ですか?

A. 戦国時代の武将で、織田信長に仕えて近江の坂本城、のちに丹波の亀山城などを任されるまで出世しました。丹波を平定するなど活躍しましたが、1582年に本能寺の変で主君の信長を討ちました。直後の山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れ、逃れる途中で亡くなりました。前半生や生年には諸説あります。

Q. 明智光秀はいつの時代の人ですか?

A. 戦国時代の人物です。1528年(享禄元年説など諸説あり)に生まれ、1582年(天正10年)に亡くなりました。

Q. 明智光秀の出身地はどこですか?

A. 明智光秀は美濃国(現在の岐阜県)と伝わる(諸説あり)の生まれです。

Q. 明智光秀はなぜ本能寺の変を起こしたのですか?

A. はっきりした理由はわかっておらず、諸説あります。信長への恨み、天下を取る野心、四国の長宗我部氏をめぐる方針の対立などが挙げられますが、決め手となる史料はありません。

参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata

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