何をした人?
戦国時代の尾張の大名です。1560年の桶狭間の戦いで今川義元を破り、足利義昭を立てて京都に上りました。長篠の戦いでは鉄砲を大量に使い、安土城を築いて楽市・楽座で商業を盛んにし、天下統一を目前にした1582年、本能寺の変で家臣の明智光秀に討たれました。
| 名前 | 織田信長 |
|---|---|
| 生没年 | 1534年(天文3年) – 1582年(天正10年) |
| 時代 | 戦国時代 |
| 出身地 | 尾張国(現在の愛知県)。勝幡城または那古野城と伝わる(諸説あり) |
| 別名 | 吉法師(幼名)、三郎、上総介 |
| 主な業績 |
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尾張(愛知県)の武将・織田信秀の子として生まれた。幼い名は吉法師。父は尾張の一部を治める織田家の一族で、商業で栄える津島の港をおさえて力をつけていた。
12歳で元服し、信長と名のった。若いころは、着物をだらしなく着て町を歩き回り、柿や瓜をかじりながら歩くなど、「大うつけ(大ばか者)」と呼ばれたと『信長公記』は伝える。
このころ、美濃(岐阜県)の斎藤道三の娘・濃姫(帰蝶)と結婚した(年は諸説あり)。争っていた織田家と斎藤家を結ぶ政略結婚だった。
父の信秀が亡くなった(年は諸説あり)。葬儀に普段着のまま現れ、仏前に抹香を投げつけたと『信長公記』は伝える。家の中には、弟の信勝(信行)を支持する者も多かった。
教育係だった平手政秀が、信長をいさめるため自ら命を絶ったと伝わる(諸説あり)。同じ年、正徳寺で義父の斎藤道三と会った。正装して堂々と現れ、多くの鉄砲や長い槍をそろえた家来を見た道三は、「わが子たちは、いずれあの男の家来になるだろう」と言ったという。
義父の道三が子の義龍との戦いで命を落とした。信長に背いた弟の信勝を討ち、やがて尾張をほぼ一つにまとめた。
大軍を率いて攻めてきた駿河の今川義元を、桶狭間で奇襲して討ち取った。26歳だった。出陣の前に「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり」と幸若舞『敦盛』を舞ったと伝わる。
今川家から独立した三河の松平元康(のちの徳川家康)と同盟を結んだ。東の守りを家康に任せ、信長は西の美濃へ目を向けた。
美濃の斎藤氏を倒して稲葉山城を手に入れ、地名を岐阜と改めた。このころから「天下布武」の印を使い、天下を治める志を示した。
足利義昭を奉じて京都に入り、義昭を15代将軍にした。堺など豊かな町を支配下に置き、関所をなくして商人の往来を自由にした。
越前の朝倉氏を攻めたが、妹お市の夫・浅井長政に背かれ、金ヶ崎から命からがら退いた。その後、家康とともに姉川の戦いで浅井・朝倉軍を破った。石山本願寺との10年にわたる戦いも始まった。
浅井・朝倉に味方した比叡山延暦寺を焼き討ちにした。僧や住民が多く命を落とし、人々を驚かせた。
対立するようになった将軍・義昭を京都から追放し、室町幕府はほろびた。同じ年、朝倉氏と浅井氏をほろぼした。
家康とともに、武田勝頼の騎馬隊を長篠で破った。馬防柵の後ろに多くの鉄砲隊を並べた戦い方で知られる(「三段撃ち」については諸説あり)。
近江の琵琶湖のほとりに安土城を築き始めた。高くそびえる天主は、狩野永徳の絵で飾られた。城下では楽市・楽座で商売を自由にし、キリスト教の宣教師も保護した。
10年に及んだ石山本願寺との戦いが終わり、本願寺は大坂を退いた。信長は畿内をしっかりとおさえた。
春に武田氏をほろぼした。中国地方の毛利氏攻めに向かう途中、京都の本能寺に泊まっていたところを家臣の明智光秀に襲われ、「是非に及ばず」と言って自ら命を絶ったと伝わる。天下統一を目前にしての最期だった。
A. 戦国時代の尾張の大名です。1560年の桶狭間の戦いで今川義元を破り、足利義昭を立てて京都に上りました。長篠の戦いでは鉄砲を大量に使い、安土城を築いて楽市・楽座で商業を盛んにし、天下統一を目前にした1582年、本能寺の変で家臣の明智光秀に討たれました。
A. 戦国時代の人物です。1534年(天文3年)に生まれ、1582年(天正10年)に亡くなりました。
A. 織田信長は尾張国(現在の愛知県)。勝幡城または那古野城と伝わる(諸説あり)の生まれです。
A. 1582年6月、京都の本能寺に泊まっていた信長を、家臣の明智光秀が大軍で襲った事件です。信長は自害し、嫡男の信忠も二条新御所で亡くなりました。光秀が背いた理由には諸説あります。
参考:Wikipedia (ja) / Wikipedia (en) / Wikipedia (fr) / Wikipedia (zh) / Wikidata
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教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。