江戸の日本橋の裕福な商家・吉村勘兵衛の次男として生まれた。本名は吉村芳三郎という。子どものころから物語の本や芝居の台本を読むのが大好きで、川柳や狂歌を作ることにも夢中になった。この読書好きが、のちに歌舞伎の作者として大成する土台となった。
十代の半ばに遊びが過ぎて親から勘当され、家を出た。貸本屋の手代として働いたが、仕事よりも朝から晩まで本を読みふける毎日だったという。こうして江戸の小説や芝居の知識を大量に身につけた。のちの作品の幅の広さは、このころの読書から生まれたといわれる。
狂歌や俳句、踊りで名を知られるようになり、ついに歌舞伎作者の五代目鶴屋南北に弟子入りした。抜群の記憶力があり、『勧進帳』のせりふをすべて覚えていて、七代目市川團十郎を舞台の陰から助けたことで認められたと伝わる。
二代目河竹新七の名を継ぎ、芝居小屋で台本作りをまとめる立作者になった。ただ、立作者になってからもしばらくは大きな当たりがなく、苦しい時期が続いた。それでも多くの台本を書き続け、舞台づくりの技を少しずつみがいていった。
役者の四代目市川小團次と出会ったことが大きな転機となった。小團次のために書いた『都鳥廓白波』が大当たりとなり、出世作となった。せりふを生かす小團次の芸と黙阿弥の台本は相性がよく、二人は組んで次々と人気作を生み出していった。
同じ名前を持つ三人の盗賊を主人公にした『三人吉三廓初買』を書いた。「月も朧に白魚の」で始まるお嬢吉三のせりふは、七五調の美しい響きで知られ、今も名ぜりふとして親しまれている。こうした耳に心地よいせりふ回しは「黙阿弥調」と呼ばれた。
盗賊の五人組を描いた『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)を書き、弁天小僧の「知らざあ言って聞かせやしょう」のせりふが大評判になった。盗賊を主人公にした黙阿弥の芝居は「白浪物」と呼ばれる一つの分野になった。登場する悪人はどこか弱く、運命に振り回される人として描かれた。
長く組んできた小團次が亡くなった。それでも黙阿弥の筆は衰えず、明治になると九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次の「團菊左」のために、『河内山』や『魚屋宗五郎』などの名作を次々に書いた。西洋の風俗を取り入れた散切物も手がけた。
散切物の大作『島鵆月白浪』を書き上げると、これを最後の大作として引退を宣言し、名を黙阿弥と改めた。しかし実際には、その後も「スケ」(手助け)という名目で台本を書き続け、事実上の中心の作者であり続けた。黙阿弥に代われる作者はいなかったのである。
政府の高官や学者たちが演劇改良会をつくり、歌舞伎を西洋の劇のように上品で事実に合ったものに変えようとした。黙阿弥は求めに応じて新しい形の芝居も書いたが、その考えには必ずしも賛成しなかったといわれる。黙阿弥という名は「黙して語らず」の意味と解釈されることが多い。
歌舞伎座のための作品を最後の作品として、東京・本所の自宅で亡くなった。生涯に書いた作品は三百を超え、坪内逍遥は「明治の近松」とたたえた。娘の養子となった河竹繁俊は演劇の研究者として、黙阿弥の仕事を後の世に伝えた。
佐久間象山井伊直弼鍋島直正(閑叟)吉田東洋島津久光岩瀬忠震阿部正弘勝海舟
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。