土佐藩の上級武士である吉田正清の四男として、高知城下の帯屋町に生まれた。名は正秋で、東洋は号である。先祖は長宗我部氏に仕えたのち、山内一豊に招かれて土佐藩に仕えた家柄であった。剣術では一刀流などを学んだ。
異母兄が若くして亡くなったため、吉田家の跡取りとなった。気性の激しい若者で、のちには自らの短気がもとで謹慎を命じられたこともあった。それでも学問に励み、藩の政治や海の守りについて自分の考えをもつ人物へと成長していった。
父の正清が亡くなり、吉田家の家督を継いだ。土佐藩では藩主山内豊熈のもとで藩の政治の立て直しが進められようとしていた。家を継いだ東洋は、まもなく藩の役人として働き始め、その鋭い判断力と実行力で頭角を現していくことになる。
船奉行として藩に仕え始め、まもなく郡奉行に移って村々の政治を担当した。藩主豊熈の改革に加わり、飢饉に備えて藩が米などを蓄える「済農倉」をつくるよう提案した。人々の暮らしを守るしくみづくりに、早くから関心を寄せていたのである。
病気のため役を離れたが、人の登用や法の改正、海の守りなどについての意見書『時事五箇条』を藩に出した。外国の船が日本の近くに現れるようになった時代に、藩がどう備えるべきかを真剣に考えていたのである。この意見書が認められ、二年後には再び藩の役についた。
義理の兄にあたる後藤正晴が病気で亡くなると、残された息子の保弥太、のちの後藤象二郎を父親代わりとなって育てた。この年の暮れには藩主豊熈が亡くなり、東洋は役を離れることになった。後藤はのちに東洋の改革を受け継ぎ、明治の政治家として活躍する。
近畿地方を旅して回り、伊勢の漢学者斎藤拙堂や、京都の梁川星巌、頼三樹三郎らと会って見聞を広めた。土佐の外の学者や志士と語り合ったことで、日本全体の動きや新しい考え方に触れ、のちの大胆な改革につながる視野を身につけていった。
ペリーが来航したこの年、藩主の山内容堂に大目付に抜擢され、まもなく参政として藩の政治改革を強力に指導した。容堂は東洋の才能を高く買っていた。のちに容堂が「東洋なら自分を織田信長に似ていると答えただろう」と語ったという逸話も残る。
江戸に出て学者たちと交わったが、酒の席で旗本に手を上げる騒ぎを起こし、役を解かれて家禄も減らされた。土佐へ帰されて謹慎していた間に大地震が起こり、何もできない身を嘆いて自らを「土佐の罪人」と記した漢詩を作ったという。年については諸説ある。
高知の郊外に私塾の少林塾を開き、後藤象二郎、乾退助(のちの板垣退助)、福岡孝弟、岩崎弥太郎ら若い藩士たちを教えた。この教え子たちはやがて一大勢力となり、幕末から明治にかけて土佐藩や日本の政治、経済を動かす人物へと育っていった。
前年に許され、この年に参政として藩の政治に戻った。法律書『海南政典』を定め、家柄にとらわれない人の登用、産業の育成、軍の改革、開国と貿易などを進めた。しかしこの大胆な改革は、古い家柄の人々や尊王攘夷を唱える土佐勤王党との対立を生んだ。
藩主の山内豊範に歴史の講義をした帰り道、雨の夜に、対立していた土佐勤王党の者たちに襲われて命を落とした。改革は道半ばで終わったが、東洋が育てた後藤象二郎や板垣退助らは、のちに大政奉還や明治の新しい政治で大きな役割を果たしていく。
織田信長ペリー岩崎弥太郎板垣退助後藤象二郎山内容堂(豊信)武市半平太(瑞山)谷干城
堀田正睦佐久間象山井伊直弼鍋島直正(閑叟)島津久光岩瀬忠震阿部正弘勝海舟
教科書や伝記で確かめられる事実をもとにしています。不確かなことは「諸説あり」「と伝わる」としています。